原爆投下時刻の午前8時15分に黙とうする参列者たち=福島県楢葉町大谷の宝鏡寺で2024年8月6日午前8時16分、柿沼秀行撮影

 米国による広島への原爆投下から79年となった6日、福島県楢葉町の宝鏡寺で犠牲者の追悼集会があり、集まった約100人が改めて平和な世界の訪れを願った。

 宝鏡寺の境内には「ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・フクシマを結ぶ『非核の火』」がともされている。元々は原爆で焼けてくすぶっていた広島市の家から採火され、その後、長崎の原爆で焼けた瓦から取った火と合わせて、東京・上野東照宮で「広島・長崎の火」として平和の象徴とされてきた。

 だが、維持するのが困難になったと聞いた宝鏡寺の早川篤雄住職(22年に83歳で死去)が、東日本大震災・東京電力福島第1原発事故から10年となった2021年3月11日に引き取った。以来、毎年8月6日に市民団体「『非核の火』を灯(とも)す会」が追悼集会を開いている。

 この日、参列者たちは広島市の平和記念式典のテレビ中継に合わせ、原爆投下時刻の午前8時15分に黙とうした。会の共同代表、佐々島忠男さんは「25年3月に開かれる核兵器禁止条約第3回締約国会議に、日本政府は参加する必要がある。核廃絶のため我々にできるのは世論を盛り上げること。若者たちにもこの訴えを広げていきたい」とあいさつした。この後、追悼の尺八の演奏や合唱、地元のじゃんがら念仏踊りなどが披露された。

 参列した溝井裕子さん(81)は、北海道で終戦を迎え、戦後、家族4人でいわき市に転居した。3歳上の姉が栄養失調で失明するなど、戦後のひもじい思いは忘れられないと言う。「ウクライナやパレスチナの子どもたちの泣き顔はかわいそうで見ていられない。平和が一番。子どもたちが二度と悲しい思いをしない世の中にと祈った」と話していた。

「伝言館」館長が伝えたいこと

「非核の火」のモニュメントの前で「平和のメッセージを発信しつづける」とあいさつする安斎育郎さん=福島県楢葉町大谷の鏡宝寺で2024年8月6日午前8時47分、柿沼秀行撮影

 宝鏡寺境内には、早川住職が私財をなげうって建てた、原爆などの資料を集めた施設「ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・フクシマ伝言館」がある。早川住職が亡くなった後を引き継ぎ、館長を務めるのが、立命館大名誉教授の安斎育郎さん(84)だ。この日の追悼集会でも、訪れた人に、資料の一つ一つを丁寧に説明する姿があった。

 太平洋戦争のただ中、東京都内で生まれた。生家は空襲で焼け、福島県出身の両親が親類を頼り、1944年、二本松市に家族4人で疎開した。小さなサツマイモくらいしか食べるもののない時代だったが、イナゴやタニシは「取り放題」。野山を駆け回って過ごした。終戦も二本松市で迎えたが、玉音放送の記憶はなく「たぶん、家の外を走り回っていたんでしょう」。

 東京大工学部原子力工学科を卒業すると、専門の放射線防護学の立場から、被爆者訴訟の証人として、法廷で放射線が人体に及ぼす影響などを述べた。だが、因果関係を立証するのは難しく、勝訴も敗訴も経験した。

 長崎原爆の被爆者で日本原水爆被害者団体協議会代表委員を務めた谷口稜曄(すみてる)さん(2017年に88歳で死去)とも親交を深め「放射線の科学的な側面でなく、差別を含む社会的な側面にこそ原爆の暗い問題があることに気づかされた」という。

 1972年に開かれた日本学術会議の原発問題を考えるシンポジウムで、日本の原発について「軍事利用への歯止めは十分か」などの点検基準を提言。早川住職ともそこで出会い、長い付き合いが始まった。

 原発事故では被災者支援の活動を続け、今も自宅のある京都府宇治市からほぼ毎月2回ほど宝鏡寺に通っている。この日の集会のあいさつで「早川さんの遺志を継いで、ここを拠点に非核、平和のメッセージを発信し続けたい」と力強く語った。【柿沼秀行】

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