長年にわたり独裁体制を敷いたシリアのアサド政権は、体制に批判的な国民を収監し、厳しい拷問を加えていた。収容者たちはどのように拘束され、どんな拷問を受けたのか。
首都ダマスカスで12日、政権批判をしたとして7カ月間拘束された活動家の男性とともに、拘禁施設の一つを訪ねた。
市内南部にあるシリア軍情報部の庁舎。1階にある暗い駐車場から地下に下りると、冷たい通路に重たい鉄の扉がいくつも並んでいた。
「これだ、ここだよ、間違いない」
「5番」の部屋を見つけると、バッシャール・バルフームさん(63)は声を上げた。
室内に入ると、すえたようなにおいがわずかに鼻を突く。冷たい壁にはいくつもの数字が刻まれていた。
ヨーグルトのフタを丸めた「ペン」で、収容者たちが食事の回数を頼りに刻んだカレンダーだ。日付は、アサド政権が崩壊した12月8日で止まっている。
バルフームさんによると、この施設では、収容者は下半身の下着1枚だけの姿で拘束されていた。部屋の一角に幅2メートル、奥行き3メートル程度のトイレがあり、普段はその中に30人あまりが押し込められていた。
収容者たちは満員電車のようにぎゅうぎゅう詰めの中で立ったまま眠るしかなかった。協力してわずかな隙間(すきま)を作り、時折、交代で横になったという。5月から拘束されていたバルフームさんは「夏はとにかく暑かった。だが、冬は人肌で暖かかった」と振り返る。
食事のときはトイレから出され、大部屋で食べることができた。だが、朝食と夕食はジャガイモ半分と卵やチーズなどのわずかなおかず、昼食はライスだけだった。
収容者はみんな痩せていき、7月には隣の房で病死した人もいた。このときは、遺体は3日間、放置されたままだったという。
「取り調べ」のときもトイレから出され、上階の別室に連れて行かれた。
政権批判を謝罪する文書に署名するよう何度も迫られ、目隠しをしたまま平手打ちされた。失禁した小便を飲むよう強要されたこともある。
両足に電極をつけられて電気ショックを加えられたときは、「高いところから落とされたような感覚」を味わった。
常に「殺される」と感じていた。
迎えた12月7日。63歳になったこの日、取調官から「明日、お前を処刑する」と告げられた。【ダマスカス金子淳】
<後編に続く>
解放されたのは「処刑」当日 拷問から生還したシリア活動家
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