日本被団協へのノーベル平和賞の授賞式が日本時間の今夜、行われます。原爆が投下された長崎には、捕虜収容所に入れられ、被爆した外国の人たちもいました。元オランダ兵の被爆者とその遺族の思いとは…。

オランダ南部、ワールレ市。その森に長崎で被爆したオランダ人の男性が眠っています。

アナローズさん
「(生前)父自身がこの場所に散骨したいと決めました。近くに住んでいたし、この場所が好きだったんだと思います」

5年前、99歳で亡くなったウィリー・ブッヘルさん。オランダ領だった現在のインドネシアで生まれ、太平洋戦争中に旧日本軍の捕虜となりました。

1945年8月9日、収容所のあった長崎市で被爆。ブッヘルさんは生前、その日のことを証言していました。

被爆した元オランダ兵捕虜 ウィリー・ブッヘルさん
「周りを見ると工場も兵舎も壊れ、原爆が投下された方向に向かって倒れていた」

ブッヘルさんがいた収容所には当時、およそ200人の捕虜がいて、原爆で8人が死亡したとされます。

ブッヘルさんは原爆投下により、次々と仲間が死んでいく過酷な捕虜生活から解放されたと考え、投下は「やむを得ない」と受け止めていました。

被爆した元オランダ兵捕虜 ウィリー・ブッヘルさん
「戦争ですからね。(捕虜の)命を犠牲にしても、平和をもたらすために原爆を使わなければならなかったと思います」

戦後、ブッヘルさんはオランダ本国に移住。2014年には長崎を訪問しました。

元オランダ兵ブッヘルさんの長女・パティさん
「(収容所跡地で)花を手向け、数分間立っていた時、父が目に涙を浮かべているのが見えました。ほぼ初めての出来事だったので、よく覚えています。父は原爆投下に理解を示しましたが、戦争を憎んでいました。ただ、日本人も同じように苦しんでいるのを見ていたので、日本人を憎んではいませんでした。我々はともにある、と」

日本被団協に平和賞を授与するノルウェーのノーベル委員会は、「すべての被爆者を称えたい」と述べています。これは、被爆体験を伝え続けたブッヘルさんへのメッセージでもあると伝えると…

元オランダ兵ブッヘルさんの長女・パティさん
「(受賞理由を)父はとても喜んだでしょうね。シャンパンを開けたかもしれません。晩年、父は戦争中の経験を話したがっていたし、世界の人に知ってもらいたがってましたから」

一方で、核兵器についてはどう考えているのか。オランダには、NATO=北大西洋条約機構の加盟国で共同運用する「核シェアリング」に基づき、アメリカが管理する核兵器が配備されています。

元オランダ兵ブッヘルさんの長女・パティさん
「核兵器は好ましくありませんし、核配備も喜ばしいことではありません。ただ、国際的な緊張の高まりを考えると必要なのだとは思います」

元オランダ兵ブッヘルさんの三女・アナローズさん
「核兵器があることは理解していますが、使用されないことを願っています」

元オランダ兵ブッヘルさんの長女・パティさん
「私はむしろ核を廃絶したいと考えます」

世界各地で軍事侵攻や紛争が続き、核の脅威が高まる中、「日本被団協」のノーベル賞受賞は「核抑止」の議論を続ける国際社会に警告を突きつけています。

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