観測史上初めて最大震度7を2回観測した2016年4月の熊本地震で、熊本県宇土市役所の5階建て庁舎は大きく損壊した。「つぶれて使えなくなった市役所を見た時は、すごくショックを受けました」。そう話すのは、同市出身で24年ミス・インターナショナル日本代表の植田明依(めい)さん(25)。庁舎は建て替えられ、防災拠点の大切さを伝える施設として23年に完成した。熊本地震から8年となるのを前に、植田さんにとって「復興のシンボル」ともいえる市役所で、当時の体験を聞いた。
「(ボランティアをしていたのは)ここだったと思います」。市役所1階に展示されている熊本地震の被害や復興の状況を伝えるパネルの展示を見ながら、植田さんは当時に思いをはせた。地震があったのは高校3年になったばかりだった頃。震災後は1週間ほど市のボランティアとして支援物資の仕分けや配布に携わった。3人きょうだいの末っ子で、兄はサッカー元日本代表でJ1鹿島の植田直通選手。地震後に兄がチームメートと支援物資を届けてくれ、「何か熊本のために動きたい」との思いが強くなったという。
前震が起きた16年4月14日午後9時26分。植田さんは部活が終わって自宅に帰り着いて遅い夕食をとっていた時だった。突然大きな揺れに見舞われ「隠れて!」と、横にいた姉と机の下にもぐって身を守った。曽祖父が建てた築約90年の家のはりが大きく揺れるのが見えた。
自宅の倒壊の恐れがあったため、その夜は車中泊して、翌15日晩は家の玄関近くの部屋で就寝。しかし、16日午前1時25分、本震が襲った。「ゴォーッと聞いたことがないような地鳴りがした後に大きく揺れた。逃げたくても揺れで真っすぐに歩けなかったです」
津波注意報が出たため、両親と祖母、姉の5人で車で山の上に避難して夜明けまで過ごした。宇土市では震度6強を観測し、自宅は屋根瓦が落ちて壁に亀裂が入るなど半壊したうえ、庭も液状化した。近くのいとこの家に1週間ほど身を寄せ、夜は車中泊を続けた。
その後も余震が続き、揺れたらすぐに外へ逃げる生活がしばらく続いた。「『1秒後はどうなるか分からない』と感じた経験から、当たり前だった日常がかけがえのないことであると気づきました。(地元の大学卒業後も)生まれ育った地元を拠点にし続けるのは、家族と一緒に過ごす時間をより大切にしたいという思いからです」
日本を代表する選手を目指す兄の姿に刺激を受け、将来は兄の力になれるような仕事に就きたいとの思いがあった。自身もバスケットボールに打ち込んだ経験もあり、アスリートを支えるスポーツ栄養士や教員を目指そうと、17年春に熊本県立大の環境共生学部へ進学。食の教育の大切さを痛感して家庭科教員の道を志した。
大学を卒業した21年春、市立熊本中央高(熊本市中央区)に教員として就職。授業では調理実習や裁縫を教える以外に、生徒に生きる力を身に付けてもらおうと自身の経験を交えて災害への備えなども伝えた。
ミス・コンテストへの応募を後押ししたのは、生徒たちからの「先生、モデルになったらいいじゃないですか」という言葉だった。実はモデルの仕事に前々から興味はあったが、とっさに「そんなの無理だよ」という言葉が口をついて出た。
でも生徒たちの夢を応援する立場の自分が否定的な発言をしたことを悔いた。「何か挑戦したい。変わりたい」。ちょうどそう思っていた時、知人から「ミス・クマモト」への出場を勧められ、22年秋に思い切って出場。見事、優勝した。
さらに上を目指そうと、世界的なコンテスト「ミス・インターナショナル」の日本代表への挑戦を決めた。そして23年秋、ファイナリスト32人の中から1位に選ばれ日本代表の栄冠に。「地震の時にたくさんの人から支援を受け、優勝してお礼を発信することができたらと思った。挑戦し続ける姿を通じて多くの人に明るい気持ちになってもらいたいです」と目を輝かす。
これまでは学校の協力もあり、教員の仕事と並行して活動を続けてきたが、世界の舞台を目指すために3月末で退職。11月に東京で開かれる世界大会に向けて、熊本と東京2拠点の生活を始めた。
地震から8年たつが、目に見える復興が進む一方で、心の復興は完全ではないと感じている。毎年4月14、16日は胸騒ぎがして「無事に朝を迎えられるように」と思いながら眠りにつく。
11月にある世界大会には、例年約70カ国・地域の代表が集まる。その晴れの舞台で「熊本の自然や人の温かさといった魅力も世界に伝えたい。世界のファイナリストと熊本地震の復興や世界各地で起きている自然災害についてもディスカッションしたいです」と意気込む。【山崎あずさ】
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