能登半島地震の発生からちょうど3カ月が過ぎた今年4月1日。石川県輪島市内の被災を免れた民家で、輪島塗漆器販売・製造の「塗太郎(ぬりたろう)」の工房が再開した。
初代社長の中宮春男さん(68)さんは「輪島市内でほぼ最初に再開できた工房だと思う。販売用の店舗はまだ持てていないけど、とにかく再開することが大事。今はワクワクしながらやっていますよ」と話した。
もとは、そこから約500メートル離れた輪島市河井町のエリア、「朝市通り」から海方向に抜けるわずか1メートルほどの細い路地、「田谷小路(たや・しょうじ)」沿いに「塗太郎」はあった。
大火災によって店舗、工房、倉庫、自宅が全焼した。
輪島塗漆器の製造と販売店舗に加え、観光客などが輪島塗の絵付けなどを体験できる「体験工房」やカフェも兼ね備えていた。工房では「下地から上塗り、手描きの蒔絵(まきえ)や沈金など、すべての工程」を自社で行っていたため、商品を比較的手ごろな価格で販売していたこともウリだった。
輪島朝市エリアに建っていた輪島塗「塗太郎」=のとルネ提供中宮さん自身も経営者であるとともに、いまも現役の職人だ。
輪島市三井町の農家出身。
父親を早くに亡くし、きょうだいも多かったことから、15歳で東京の印刷会社に就職したが、ホームシックになり、17歳でふるさとに戻ってきた。母親に負担はかけられないと、親戚のつてをたどって、18歳で輪島の大手漆器店「田谷漆器」の輪島塗職人、故・田谷忠さんに弟子入りした。
「その時まで輪島塗なんて知らなかったですよ。百姓の家でしたが、普段から塗物の器は使っていたので、自分たちの生活水準以上のものだとは思っていなかった。この業界に入った時、初めて、ああ、これってここ(輪島)で作っていたのか、みたいな」と笑う。下塗り職人として4年ほど経ったある日、親方に背後から肩をたたかれた。「お前ちょっと来い」と言われ、親方の部屋に行って正座をすると「明日から蔵に行け」。上塗り職人への「昇格」だった。
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輪島塗の中でも「花形」 上塗り師とは輪島塗の中でも「花形」 上塗り師とは
「上塗り」とは、輪島塗を大きくわけた「木」「塗り」「加飾」の工程の中で、蒔絵などの加飾がされる手前の、塗物として完成する最後の工程のこと。
中宮さんによると、あの、黒色や朱色のつややかさは、刷毛で塗る技術はもちろん、漆が固まり始める時間を計算しながら塗ることが重要で、漆の厚みの調整が難しいという。
と中宮さんは説明してくれた。
親方の「蔵に行け」とは、埃をかぶらず、かつ保湿性が大事だったことから、上塗り作業を蔵のなかでやっていたからだ。中宮さんは、翌日から蔵にこもり始めた。
上塗り職人を育成するには通常10年以上かかるといい、当時の中宮さんはまさに「大抜擢」だった。「選ばれたからには結果を出さないと、また下げられるんです、下塗りに。下げられた先輩もいました。でも、最初はやってもなかなか良い結果が出なくて、円形脱毛症になったり、胃炎になったりしました」
一人前の「上塗り師」として定評を得た30歳のころ、1987年(昭和62年)に職人仲間4人と独立。
「(第2次)オイルショックのあとで輪島もちょっと暗い感じで仕事がなくなってきていた。イチかバチか、誰もやってない上塗り専門業者というのをやろう、と共同で始めた」会社名は、上「塗り」師の男性だから「ぬりたろう(塗太郎)」に決まった。
輪島塗「塗太郎」の体験工房の様子=YouTubeチャンネル「輪島塗太郎」から ?当時、輪島塗を扱う業者のなかで、上塗りだけを専門に請け負うところはなかったという。折しも吹き始めていたバブルの追い風とともに、漆器販売も上向きに。特殊な技術を持った上塗り職人を抱える工場は少なく、中宮さんたちは重宝がられ、別々の漆器屋から4人で月30件以上も請け負っていたという。「昔話ですけど、お膳30(の注文)なら、30人前塗り上げるまで食事・晩酌付きでした」
良い時代も長続きはせず、バブルが崩壊し、仕事は半減。従業員の給料も払えなくなった。「この先、同じことをしても長続きしないだろう」。何か新しいことを始めないと。
ふと、妻・悦子さんと目があった。悦子さんは、輪島塗の「加飾」の部分にあたる、沈金という絵付けの技術を持っている。
「これだ!」
当時、朝市通りを中心に輪島に観光で訪れる人が増え始めていた。中宮さんらが作り、上塗りまで仕上げた器を、悦子さんが指導して観光に来たお客さんに絵付けを体験してもらったら面白いんじゃないか。一瞬の思いつきだった。
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「おもちゃにするな」組合から呼び出され怒られた「おもちゃにするな」組合から呼び出され怒られた
輪島朝市通りの近くに体験工房を造った。今からちょうど30年前、1994年(平成6年)の春だった。オープンしたのが春休みだったことから、家族旅行で朝市通りに訪れた親子連れが列をなした。当時、輪島塗作りを体験させること自体が珍しく、雑誌や新聞などからの取材が相次いだ
業界からは冷ややかな目で見られた。
「歴史ある伝統の輪島塗をそんな遊びにしちゃいかんて、組合から呼び出されて何回も怒られました」と中宮さんは振り返る。それでも、当時からまったく意に介さなかったという。むしろ、体験工房で子どもたちが楽しそうに輪島塗の器を手にしながら絵付けをしている姿をみて、「大成功だ」と思った。
「輪島塗は高価なモノというイメージもあったけど、自分で手がけられると愛着が湧くし、ただ漆器を作って売るだけではなく、漆器を楽しんでもらって、輪島塗の名前が広がるなら良いじゃないかと思っていましたね」 朝市通り近くにあった「塗太郎」の店舗兼工房=中宮春男さん提供5年後、借りていた物件の契約が切れ、新しいところを探していると、買ってほしいと声をかけてくれた人がいた。
18歳だった中宮さんを弟子にとり、上塗り職人にまで引き上げてくれた田谷忠親方だった。店をたたむため、200坪ほどある敷地を買ってほしい、と言われた。「私にとっては神様のような親方だし、恐れ多くてとても買えませんと断ったんですが、『お前なら何かやってくれそうだから』と懇願された」
道に「田谷小路」と名付けられるほど大手だった親方の店と土地を買い取り、200坪の土地に工場、店舗、体験工房と自宅を再建した。
地震による大火では、そのすべてが焼け落ちた。
「きれいさっぱり燃えたことで逆に踏ん切りつきました」と中宮さんは言う。
今年2月、被災して1カ月ぶりに「塗太郎」のホームページ(HP)を見た中宮さんは腰を抜かしそうになったとう。「安否を心配するメールが何千件と入っていて、口座にもお金が入金されていて…」。さらに、HPを通じて注文が約300件入っていた。「あれを見た時は本当にうれしかった。早くやらないと、と責任感もわいてきて。お客さんからの励ましが今一番、自分たちの再建の力になっている」
「過去、困難に直面した時も常に、じゃあ自分には何ができるんだと考えてきた。自分は作る世界の人間なので、また作るだけ。常に、一から作ってきた。これからも、作っていきます」近く、東京にもショールームを持ちたいと考えている。職人社長の夢は、尽きない。
(取材:今村優莉)
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