[心のお陽さま 安田菜津紀](35)
山口県宇部市、床波海岸の海辺に立つと、コンクリートの柱が2本、沖に連なっているのが見える。「ピーヤ」と呼ばれる、かつての炭鉱の排気・排水筒だ。1942年2月3日、長生炭鉱の海底坑道が崩れ、沖縄出身者5人を含む労働者183人が冷たい海にのみ込まれていった。戦争遂行のため、安全を度外視した採掘の中での事故だったことが指摘されている。
とりわけ戦時中、足りない人手と「安価な労働力」が、植民地支配下の朝鮮半島に求められた。そして他の労働者が忌避するような、危険な現場に駆り出された。犠牲者のうち136人が、朝鮮の人々であり、周囲からは蔑称で「朝鮮炭鉱」とも呼ばれていたという。
遺骨は今も、海底に沈められたままだ。遺族も高齢になり、その返還は待ったなしの問題だ。市民団体「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」は、政府、自治体への働きかけを行ってきたものの、積極的に動く気配は見られなかった。
「刻む会」は時間をかけた綿密な調査や法的な専門家の意見も踏まえ、坑道の入り口部分(坑口)は宇部市の土地にあたるとしてきた。宇部市が工事を止めるよう求めてこなかったため、「刻む会」が地道に寄付を集めて発掘工事に踏み切った。そして9月25日、坑口を発見する。
潮が満ちている時間は、坑口も水に浸(つ)かる。筆者が取材に訪れた10月8日、「刻む会」の井上洋子共同代表は、「(発見時に)坑口から水がだっと出たとき、この水の中に皆さんがいらっしゃるんだと思うと、辛(つら)かった」と切実な思いを語った。
その後、坑口からダイバーによる潜水調査も行われている。こうして地道に成果をあげているが、本来、国や市が責任を持ってやるべきことを、民間の力で動かしているのが現状だ。しかし厚生労働省はなお、国による実地調査や民間調査への協力は考えていないのだという。
長生炭鉱が浮き彫りにしてきたのは、遺骨収集だけの問題ではない。植民地支配の歴史、そして今なお背を向けられたままの被害と向き合えるかが政府に問われている。(認定NPO法人Dialogue for People副代表/フォトジャーナリスト)=次回は第3月曜に掲載
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