「ちょっと行ってくるわ」。元日の午後、すぐ近くの幼なじみの家に向かった父。これが、永遠の別れとなった。この春も、父が自宅の庭に植えた早咲きの桜が花を咲かせた。「あの時、出かけなければ……」。季節はめぐるが、残された家族にはやるせない思いばかりが募る。
「今年もおいしいものを食べられて、最高だな」。石川県珠洲(すず)市三崎町の漁師、前田進さん(当時74歳)はあの日、帰省した2人の息子ら家族5人で食卓を囲み、満足げだった。食事を終えると、小学校からの幼なじみの男性宅に出かけていった。激しい揺れが襲ってきたのは、それから20分ほど後のことだ。
直後、自宅を飛び出した会社員の長男洋一さん(44)=金沢市=の目に映ったのは1階部分が大きく崩れた幼なじみの友人宅。「父ちゃん、どこや」と叫んだが、返事はない。気は動転するばかり。そこへ、防災行政無線から津波の危険を知らせる警報が鳴り響いた。近所の人に促され、母しげ子さん(71)、弟孝さん(38)夫婦と共に高台に避難。そのまま避難所に身を寄せた。
「何もできない状態に、気がおかしくなりそうだった。『だめかも』という思いと『抜け出して生きているかも』という期待が入り交じった」と振り返る。翌日、近所の人が重機で崩れたがれきを取り除くと、父と幼なじみの姿が見えたが、既に息はなかった。自宅は倒壊を免れただけに、しげ子さんは「自宅にいれば無事だったのに……」と思わずにはいられない。
2人が救出されたのは3日になってからだった。「(父は)両手を上にして、落ちてきた屋根を支えるような格好だった。最後まで生きようと頑張っていたのかな」。珠洲市では火葬場も被災したため、遺体を市内の葬儀場に安置後、14日に金沢市で火葬した。「お父さんの新しい船出や」。好物の菓子やお気に入りのキャップを入れ、親戚から数年前に贈られた大漁旗をひつぎにかけた。
漁の傍ら畑仕事もしていた前田さん。大漁だった日は満面の笑みで帰宅し、釣れない日でも「あかんかった」と、笑顔を絶やさなかった。心臓と肺を患い、約1年前には医師に「80歳まで生きられるかわからない」と告げられたが、「まだまだ釣りをしたい」と訴えた父。それほど、漁師の仕事を愛していた。洋一さんは、少しでも父が釣りに時間を割けるよう休みの度に金沢から帰省し、野菜作りを手伝った。
船名は息子2人にちなみ
自分の船に、息子たちの名前から1字ずつ取り「洋孝丸」と名付けるなど、家族思いな父だった。洋一さんは仕事の休み時間や眠る前などのふとした瞬間、父が救出された時に触れた、冷たい肌の感触がよみがえる。つらい記憶を振り払いたくて、酔い潰れるまで酒を飲む日もある。
月命日を控えた3月末。前田さんが大切にしていた庭の桜が見事に花を咲かせた。早咲きの「河津桜」だ。父の形見の腕時計を着けた洋一さんは「悲しい気持ちは、父を失った元日から全く変わっていない。それでも、生きていくしかない」。亡き父に語りかけるようにつぶやいた。【国本ようこ】
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