橳島優さん=父親提供

 「常に感謝の気持ちを持って生きていってください」。34歳だった長男は、旅先から自身に宛てた手紙でそうつづっていた。その約2週間後、彼は北海道の海で命を落とした。あれから2年。父親(67)の脳裏からは今も、優しく、ささいなことでも「ありがとう」の一言を忘れなかった息子の姿が消えることはない。

 千葉県松戸市の会社員、橳島(ぬでしま)優さんは2022年4月23日、知床半島沖で沈没した観光船「KAZU Ⅰ(カズワン)」に乗っていて犠牲になった。「たくさん映像を撮ってくるから、楽しみにしていてね」と言って出発した優さん。しかし家族が次に対面したのは、静かに眠る冷たい体だった。

 「どんなに苦しかっただろうか。どんなに冷たかっただろうか」。最期の光景を想像するだけで、涙が止まらなくなる。優さんが着ていた服は、約1カ月前の誕生日に家族でプレゼントした紺色のウインドブレーカーだった。

 「誰にでも優しく、優れた人になってほしい」。そう願って名付けた息子は、期待通りに育ってくれた。家族や友達思いで、4歳離れた妹には特に優しかった。中学生の時、小学生だった妹がいじめられていることを知って学校に乗り込んでいった。事故の少し前には、高熱を出した妹の元へ駆けつけて看病した。

 家族が困った時、頼りにするのはいつも「優の背中」だった。「今も何気ない生活の中で優の姿が思い浮かぶんです。今いたら助けてくれていたな、これは優に頼っていたなって」

 父親は転勤族で、引っ越しが多かった。友達ができたと思えば転校する繰り返し。そんな生活に親として心苦しさを感じていたが、優さんは文句を言わずついてきてくれた。

 優さんが中学3年の時、一度だけ、父親に感情をぶつけたことがある。オランダへの転勤が決まった時だ。「お父さん、今まで僕が友達をつくるのにどれだけ大変な思いをしたか分かっているのか」。息子が初めて見せた葛藤や不安に、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。「一晩自分で考えたのか、翌朝『やっぱりついて行くよ』って。本当に優しくて強い子だなと思った」

「カズワン」が沈没した知床半島のカシュニの滝付近。海に出た観光船から撮影した=北海道斜里町で2022年9月3日、木下翔太郎撮影

 最初は慣れない英語と海外での生活に苦労した優さんだったが、インターナショナルスクールで勉強に励み、成績は徐々に上がっていった。休みの日は1人でロンドンに行ったり、フランスの地下鉄を乗り尽くしたり、思い切った行動で家族を驚かせた。

 幼いころから無類の乗り物好きで、大人になると飛行機の自家用操縦士や小型船舶1級など多くの免許を取得。大好きな乗り物で国内外を旅行した。

 事故の2週間前には沖縄を訪れ、海を眺めながら今後の人生について考えを巡らせた。「感謝の気持ちを持って生きよう」。その思いを一生忘れないようにと、沖縄から自分自身へはがきを送ったという。

 優さんが旅行から帰ってきて数日後、そのはがきが家に届いた。「照れたような顔をしていたよ。大事なことを自分に言い聞かせて、大人になったんだなと思った」。その直後、自慢の息子は知床で帰らぬ人となった。

 事故を思い出すと、父親の胸は今でも締め付けられる。家で何もしないでいると、優さんの姿が脳裏に浮かぶ。「もし優が生きていたら……」。そう考えない日はこの2年間、一度もなかった。

 ただ、事故の日が誕生日だった父親に、優さんが用意してくれていたプレゼントは、今も封を切れないでいる。「そろそろ開けなきゃいけないなって思っているけど。運航会社と社長が責任を取るまで、気持ちが晴れることはない」

 乗客24人のうち14人の遺族らは5月にも、事故を起こした観光船の運航会社と桂田精一社長を相手取って損害賠償訴訟を起こす方針で、橳島さん家族も訴訟へ加わることを決意した。

 「残された家族はこんなに苦しんでいるのに、ずさんな管理をしていた社長は今も責任を取らず暮らしている。怒りがこみ上げてくる」。訴訟を通じて責任の所在を明確にすることで、悲惨な事故が二度と起こらないようにしたいと願う。

 23日で事故から2年。「今、天国に行って優と話せるなら、『よく頑張ったな。これまでありがとう』と伝えたい」【金将来】

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