藤井此蔵一生記(右)と、子孫に伝えるために此蔵が製作したとみられる専用の保管箱(個人蔵)=愛媛県歴史文化博物館提供
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 大塩平八郎の乱、黒船来航、安政南海地震、桜田門外の変――。幕末の大ニュースをリアルタイムで記録し続けた男がいた。松山藩領の大三島(おおみしま)・井ノ口村(現・愛媛県今治市)の出稼ぎ大工、藤井此蔵(これぞう)(1808~76年)だ。瀬戸内での経済活動を背景に、自らの足で広く人の声を集めるなど豊かな情報ネットワークがもたらした記録を、愛媛県歴史文化博物館の井上淳・学芸課長(日本近世史)が分析。「藤井此蔵が生きた幕末維新 大三島出稼ぎ大工の情報世界」と題してまとめ、同博物館の最新研究紀要に発表した。

 此蔵は、江戸時代の身分上は農民。大三島に土地を持ち、耕作するものの、備中・木之子(きのこ)村(現岡山県井原市)を拠点とする出稼ぎ大工だった。一方で穀物などの売買を手がけ、塩田開発にも携わるなど幅広く活動していた。

大塩平八郎の乱を記した藤井此蔵一生記。右上に「二月十九日大坂大火」と乱の始まりを記し、中央下に「絵図ニ致(いたし)売歩(うりあるき)」とニュースの広まりを伝えている(個人蔵)=愛媛県歴史文化博物館提供
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 当時の瀬戸内は回船が行き交う交通の大動脈。自身の経済活動で多くの生きた情報に触れ、3冊にわたる「藤井此蔵一生記」を記した。その内容は1969年、「日本庶民生活史料集成」(三一書房)に収められた。此蔵は「一生記」を専用の木箱に入れ、子孫のために残した。井上さんは、広島県在住の子孫の了解を得て原本を全て調査し、当時の背景と照らし合わせて分析した。

 天保の大飢饉(ききん)への幕府の処置に怒り、大坂町奉行所の与力だった大塩平八郎と同志が1837(天保8)年に大坂(大阪)で起こした「大塩平八郎の乱」について、此蔵は「当二月十九日大坂大火也」と乱の始まりに触れた。此蔵は、その5日後に船で広島・尾道を訪れた。町には大塩とその仲間の人相書きとともに、見つけ次第に召し捕らえるか、切り捨てても構わないという触れ書きが出されていたと記している。また(乱の様子を)「絵図ニ致(いたし)売歩抔致候(うりあるきなどいたしそうろう)」とつづった。

 井上さんは「大阪や江戸などの大都市から離れた山陽道沿いの都市でも絵図を売り歩く人物(瓦版売り)がおり、速報性の高いニュースがまたたく間に伝わっていたことがわかる」と解説。また注目すべき点に挙げたのは、此蔵が瓦版売りから買った情報以外にも、書簡上の最新情報を書き写していたことだ。例えば、1853(嘉永6)年の黒船来航時、福山藩(広島県)の儒学者がその様子を書いた書簡を、知人のつてで手に入れていた。当時、黒船来航を告げる書簡は筆写が繰り返されて流布したとみられる。

 「安政」と改元されるきっかけとなった1854(嘉永7)年11月5日発生の「安政南海地震」については「誠に恐(おそろし)キ事也(ことなり)」と書いた。午後4時に大地震、午後8時にかなり大きな余震、午後10時に大きな余震があったと記録している。井ノ口村で「土水吹出ス事夥敷(おびただしき)」と、液状化現象があったことも報告。また此蔵は、同村から大阪の木津川、安治川河口近くに移住した知人らへ見舞状を送った。知人からは、大津波が河口近くに押し寄せ、大阪の死者が6000人あまりに及んだとの知らせがあったと記した。知人らは大阪で新田開発に成功し、此蔵が大阪を商売で訪れる際の情報源だったと考えられる。

 大老井伊直弼が暗殺された1860(万延元)年の「桜田門外の変」。その直後、此蔵と家族は4カ月近く、総延長約2800キロを歩く回国巡礼の旅に出た。江戸を含め、行く先々で聞いたのが事件の後日談だった。一方で、暗殺に関わったとされる水戸浪士への警戒は厳重で、井伊家が治める近江彦根藩に入ることは困難な状況だった。特に、彦根城下は近隣の町人でも身分証明の書類などがないと通行できない有り様だった。

 此蔵は栃木・足尾の投宿先の主人の言葉を書き残している。「水戸様(直弼と対立した徳川斉昭(なりあき)、慶篤(よしあつ)父子ら水戸藩主)は御名君也」「井伊掃部(かもん)様(直弼)は(略)短才の士也」。賢い君主とされた水戸藩主に対し、直弼は目先の利を得ることばかり考えた、との人物評だ。長旅の途中、直弼のことを良く言ったのは江戸で出会った僧1人だけだったと付け足している。

 井上さんは「旅先での厳しい警戒や不穏な情勢、直弼への世評など、大きく揺れ動いた日本の空気が見事なまでに記録されている。好奇心が強く、コミュニケーション能力が高かった此蔵だからこそ残せたといえる」と総括している。【松倉展人】

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