15日で終戦から79年です。長い年月が経った今でも新たな資料が発見されています。『風船爆弾』に関する新資料から見えてくるものとは。
■79回目の“終戦の日”
全国戦没者追悼式では、戦火に倒れた310万人の死を悼まれました。
天皇陛下
「ふたたび戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります」
太平洋戦争に関する新たな資料がおととし以降、立て続けに発見されています。そこに書かれていたのは『マルふ陣地の運営に関する件』。“マルふ”とは、風船爆弾のことを指します。
太平洋戦争末期、日本軍が極秘裏に進めたのが風船爆弾、通称『ふ号作戦』です。直径10メートルもの巨大な気球に爆弾などを装着。ジェット気流に乗せ、アメリカ本土を攻撃するという、無謀とも思える作戦でした。しかし、終戦直後に証拠隠滅が図られたため、詳細は不明のままでした。
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■『極秘作戦』詳細が明らかに■『極秘作戦』詳細が明らかに
茨城県北茨城市にはかつて、風船爆弾を飛ばした基地の1つがありました。今回、この基地の見取り図が見つかったのです。
資料を発見した松野誠也さんと共に向かった先にあったのは、直径10メートルほどの大きなコンクリートの台。これが風船爆弾を飛ばすための『放球陣地』です。
この基地に、何がどのように配置されていたのか資料から分かってきました。資料によると、放球陣地はかつて9カ所あったことが分かります。さらに、大隊本部など主要な施設も置かれ、かなり大掛かりだったことが伺えます。
なぜ、この場所が選ばれたのか。松野さんは、その意味をこう推測します。
明治学院大学 国際平和研究所 松野誠也研究員
「『防諜』といって、スパイ防止や空襲を受ける時に被害をなるべく少なくするという意味で、山や丘があるような地形を選んで(基地を)展開をしていたのでは」
風船爆弾は、ここから約9000キロ離れたアメリカ本土へ飛び立っていきました。日本から放たれた約9300発のうち、約1000発が北米大陸に到達したとみられます。生物兵器を搭載することすら、計画されていました。
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■「風船爆弾を作った」96歳の証言■「風船爆弾を作った」96歳の証言
高橋光子さん、96歳です。女学校時代に風船爆弾作りに携わりました。
高橋光子さん
「(Q.この写真は何歳の時の写真ですか)今でいえば中学2年生(当時14)ですね。その2〜3年後。風船爆弾を作るのは」
1938年に制定された国家総動員法。全ての国民は戦争のために尽くすことを強いられ、10代の少女たちも例外ではありませんでした。
高橋光子さん
「そういう時代の雰囲気に染まると、それに反対したりすることは、なかなかできないんですね」
高橋さんが行っていたのは、和紙を貼って気球の形にする作業。物資が不足するなか、水で薄めたコンニャクの粉をのりにして、和紙を何枚も貼り合わせ、強化して気球を作りました。
高橋光子さん
「(Q.当時、兵器を作っている認識はあった)はいはい、もちろん。風船爆弾が華々しく爆弾でも落としてくれたら、少しは戦争の役に立つかなという感じはしていました。戦争中はね」
しかし、高橋さんは後に悔やむことになります。
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■「知らないうちに人の生死に…」消えない後悔■「知らないうちに人の生死に…」消えない後悔
日本から放たれた風船爆弾の1つは、アメリカ・オレゴン州に到達しました。ピクニックをしていた妊婦や子どもらが森の中に落ちていた風船爆弾に触れたところ爆発。6人が亡くなりました。
高橋光子さん
「戦後、それを聞いた時は、戦争って自分でも知らないうちに、自分がやったことがその人たちの生死に関わることになってるんだなと思って、やっぱりつらい気がしますね」
戦争に関わったという自責の念。戦後、作家になった高橋さんは、その思いを本に残しました。
『ぼくは風船爆弾』著:高橋光子さん
「一度戦争が起これば、自分がどんなにいやで、気をつけていても、いつ被害者になるかわからないし、加害者になるかもしれないのです」
10代の少女たちを兵器作りに巻き込み、重い十字架を背負わせた風船爆弾。
高橋光子さん
「戦争だけじゃなくて色んな差別もある時に、常に自分も加害者になっているんじゃないかなということは、考えておかないといけない」
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