あの日の痛みは今も鮮明に覚えている。14歳で左足を失ってから、79年が過ぎた。口には出さないが、不自由や苦労も多かった。でも、今やその傷は大切な存在だ。恐ろしい戦争の「生き証人」だから――。
名古屋市中村区の牛田鏡子さん(93)は1945年3月、深夜に空襲警報を聞き、両親やきょうだいと逃げ惑う中で焼夷(しょうい)弾の破片が刺さり、左足を失った。あの日の出来事を、忘れることはない。
左足に走った激痛
45年3月18日。家族とともに中区にあった「白川国民学校」近くの寺に身を寄せていた。自宅は数日前にあった空襲で全焼。寺には他にも自宅を失った多くの人々であふれかえっていた。翌19日には国民学校高等科の卒業式を控えていた。
深夜、眠っていると急に空襲警報が鳴り響いた。「早く防空壕を探して避難するんだ」。父親が血相を変えて叫んだ。焼け残った寺は目立ち、標的になる恐れがあった。防空頭巾をかぶり、両親と3人の弟と妹と寺を飛び出した。
牛田さんは5歳の弟を背負い、暗闇の中をさまよった。「ゴー」「ヒュルヒュル~」「バーン」。花火のような音が鳴り響いたかと思うと、突然ドンと地響きのような衝撃があり、とっさに身をかがめた。
その瞬間、左足に激痛が走った。寺に落ちたとみられる焼夷爆弾の破片が、左足の甲に刺さった。足は今にもちぎれそうだった。「痛い、痛い」と大声で泣き叫び、母親が落ちていた木を使って足を固定し、三角巾で必死に止血してくれた。
14歳で左足失う
長い夜が明けると、トタン板に載せられて近くの救護所へ向かった。しかし、どの救護所も多くのけが人でごった返し、運ばれてきた死人であふれていた。鎮痛剤を打ってもらうしかできず、名古屋城近くの陸軍病院に移動してようやく手術を受けることができた。
しかし、けがをしてから時間が経ちすぎたせいで、患部は壊死(えし)しており、太ももから切断せざるを得なくなった。突然の切断宣告は、14歳の少女にとって大きなショックだった。
でも、牛田さんは「身内が一緒にいて、命が助かっただけでもよかった」と振り返る。陸軍病院では、隣で寝ていた女性患者がいつの間にか息を引き取っていた。寺への空襲で友人も亡くなった。
手術後に映った市民病院を5月に退院し、その後は祖父江町(現稲沢市)の善光寺に疎開し、終戦を迎えた。「もう夜、真っ暗にしなくてもいいんだ」と純粋に喜んだという。
進みつつある民間被害者の救済
名古屋市内では42年4月~45年7月までに計63回の空襲があり、約8000人が犠牲となった。
国は軍人軍属には恩給、その遺族には年金を支給しているが、民間の空襲被害者への救済措置はない。牛田さんも「長年、そういうものだと思ってきた」
名古屋市は2010年度から、空襲で重度の障害を負った民間被害者への独自の見舞金制度を始めた。現在、1人につき年間10万円を支給している。市によると、10年度の受給者は95人だったが、23年度は33人まで減少。多くの被害者が亡くなっており、平均年齢も78・9歳から86・8歳に上昇した。
国でも救済に向けた議論が進んでいる。超党派の国会議員連盟(空襲議連)が早期の立法化を目指しており、今年6月には河村たかし市長が市の取り組みを議連に初めて説明した。牛田さんは「法律ができれば、民間人の空襲被害を忘れないことにつながるのではないか」と期待する。
若者の声で生まれた「なごや平和の日」
名古屋市は今年、太平洋戦争中にあった名古屋空襲で多くの市民が犠牲となった日にちなみ、5月14日を「なごや平和の日」に制定した。制定のきっかけとなったのは、高校生らの請願がきっかけだった。
同日開かれた祈念式典に、牛田さんも参加。「若い人が一生懸命に動いて制定されてよかった」と喜ぶ一方で、焦りも募らせる。若者に戦争で足を失ったと話しても、「いつの戦争?」ときょとんとされるという。
終戦から来年で80年。戦争の実態を知る人はごくわずかになった。牛田さんは「私の傷は戦争の生き証人。若い人には今の幸せに感謝し、戦争があったことを忘れないでいてほしい」と願っている。【川瀬慎一朗】
鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。