下関市体育館への思いを語った藤波辰爾選手=ドラディション提供

 「原点の地。無くなるのはさみしい」――。下関市体育館が老朽化のため7月末で閉館される。閉館を惜しむのはプロレスラー・藤波辰爾(たつみ)選手(70)。弱冠16歳で入門を志願し、後に師匠となる故アントニオ猪木さんと初めて出会った運命の場所が同体育館だった。デビューから半世紀を超えた「炎の飛龍」が、体育館にまつわる思い出を振り返った。

 大分の農家に6人兄弟の末っ子として生まれ、中学卒業後、自動車整備士を目指して職業訓練校へ。しかし、プロレスラーになる夢をかなえようと1970年6月16日、同郷の先輩選手を頼って訪れたのが巡業先の下関市体育館だった。試合後に先輩選手の紹介で、テレビで見たスター選手と次々にあいさつを交わしたが、「猪木さんだけが『頑張れ』って励ましてくれた」。

三角屋根が特徴の下関市体育館のアリーナ部分。多くのプロレス名試合が生まれた=山口県下関市向洋町で‎2024‎年‎5‎月‎6‎日午前‏‎11時20分、橋本勝利撮影

 そのまま巡業に合流し、入門が許されると、最初の付き人として仕えたのも猪木さんだった。内部の確執で、猪木さんが当時の団体から追放されると行動を共にし、72年に新日本プロレスを旗揚げ。厳しい基礎練習に明け暮れ、海外武者修行を経て帰国すると、「炎の飛龍」「ドラゴン」の愛称で看板選手に成長した。団体の屋台骨を支えるなど、新日時代の多くの時間を猪木さんと過ごした。

 下関市体育館には忘れられない思い出がもう一つある。2022年10月、猪木さんが亡くなった直後に自身の現役生活50周年興行で訪れた時だった。

少年時代の藤波辰爾選手=ドラディション提供

 猪木さんのトレードマークでもある赤いガウンを身にまとってリングイン。三角屋根の館内を見渡すと、普段とは異なる感情が湧き起こった。入門志願で下関に出向く際に父や兄が付き添ってくれたこと、公私に渡って猪木さんに手ほどきを受けた駆け出し時代……。支えてくれた家族や亡き師匠への思いを胸に、試合開始のゴングを聞いた。

 原点の地は姿を消すが、レスラーとしての歩みを止める気は、古希を迎えてもまだない。「ネバー・ギブアップ精神で元気を発信していく」。燃える闘魂から受け継いだ闘志は、今も燃え続けている。【橋本勝利】

下関市体育館

 国体開催に合わせて1963(昭和38)年に完成。世界的建築家の丹下健三(1913~05年)と共に「代々木競技場」(東京都渋谷区)などの設計に携わった建築構造家の坪井善勝(1907~90年)が設計・建築した。三つの屋根面で成り立つ二等辺三角形が特徴の鉄骨造。直線や曲線を駆使した幾何学図形で構成されている。新体育館完成を受け、8月から解体が始まる。

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