「原点の地。無くなるのはさみしい」――。下関市体育館が老朽化のため7月末で閉館される。同体育館に多くの思い出を持つプロレスラー・藤波辰爾(たつみ)選手(70)に話を聞いた。
――プロレス入門のため地元・大分から下関に行った時の記憶を
◆大分で療養していた地元出身の選手に入門を直談判し、下関の大会に行く機会を得た。兄の運転する乗用車に、先輩選手と父親が同乗して体育館に行った。当時は高速道路もなく、ひたすら下道での移動。後部座席に乗って、関門トンネルもくぐったと思うが、緊張と怖さが大きくて車窓からの景色は何も覚えていない。
――体育館に着いてからは
◆夕方前に着くと体育館の舞台に席を設けてもらって練習や試合を見た。大会を終えて市内の宿舎に移動すると、選手たちにあいさつしたが、どの選手も、「どこの坊やがやってきたんだ」というような感じで視線を軽く合わせてくれるだけだった。テレビでしか見たことのないジャイアント馬場さん、坂口征二さんにもあいさつしたが、アントニオ猪木さんだけが「頑張れよ」って励ましてくれたのが印象深い。
――プロの世界に触れた印象を
◆身震いしたのを覚えている。今と違って独特の雰囲気があった時代。馬場さんがプロ野球から、坂口さんが柔道から、そのほかには大相撲から転身した人というばかり。新人の段階で体が大きいのが当たり前の世界なのに、当時の僕は身長175センチ、体重65キロ。格闘技経験もなく、興味本位で志願したのでスケールが違い過ぎた。
――父親の反応は
◆下関からの帰り際、宿舎に僕を置いていく父の姿が忘れられない。プロの世界で通用するのかという以前の話で、気が気じゃなかったと思う。後日、兄に聞いた話では、帰りの車中、父は一言も発しなかったと。胸がはちきれるような思いだったと思う。
――猪木さんが亡くなった直後に下関市体育館で試合をした
◆リングに上がると猪木さんへの思いはもちろん、いろんなことを思い出した。下関には試合で何度も訪れているが、普段とは違う感情。猪木さんとは長年、師弟の間柄だったので、育ててくれた感謝もこみ上げた。
――思い出の場所が姿を消す
◆僕の原点となる体育館。本当にさみしい。現役を長く続けていると、思い出深い場所が次々と無くなっていく。デビュー戦をした岐阜の体育館もないし、1988年の夏に当時王者だった僕に猪木さんが挑んできた横浜文化体育館、ライバルの長州力と試合をした札幌の中島体育センター別館も無くなった。何もかもがいい時代で思い出深いが、閉館の見届け人みたいになってしまった。いつかはリングを降りる時が来るが、元気を発信し続けたい。
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