惨事を引き起こした大火砕流。手前は水無川=長崎県島原市白谷町で1991年6月3日午後4時10分、加古信志撮影
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 災害はなくならない。被害を減らすすべがあるとすれば、それは知ること、伝え続けること――。火山の異変を察知するため長崎県の雲仙・普賢岳に半世紀以上密着し「ホームドクター」と呼ばれた専門家は90歳を前に、集大成となる学術書を仕上げた。駆り立てたのは、あの日犠牲となった人たちが、あの場所に立つことを止められなかった悔恨の思いだ。43人が亡くなった1991年の大火砕流から3日、33年となった。

 「彼らは亡くならなくてよかったんです」。九州大の旧島原地震火山観測所(長崎県島原市)元所長、太田一也名誉教授(89)は語気を強めた。「彼ら」とは、大火砕流発生時に、避難勧告地域内にあった火砕流を正面から捉えられる撮影ポイント「定点」にいた報道関係者や、一部報道関係者が空き家を無断使用していたことから警戒に当たっていた地元消防団員らだ。

3月に自費出版した一般向け学術書「雲仙火山」の増補改訂版を手に持つ太田一也さん=長崎県島原市城見町で2024年5月23日午後4時15分、森永亨撮影
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 普賢岳は90年11月に噴火。大火砕流の8日前には火砕流が人家まで迫り、土砂の除去作業をしていた作業員が大やけどを負った。早期の住民避難の必要性を感じた太田さんは島原市長に直訴し、市は初めて火砕流に対する避難勧告を出した。だが、報道陣はその後も撮影を続け、定点にいた多くの人たちが大火砕流にのみ込まれた。

 「繰り返し危険性を警告していたが、なかなか受け入れてもらえなかった。一介の名もない火山研究者の警告にいちいち応えていては、報道や公的機関の重大な任務が遂行できないと考えるには一理あろう」「私自身もっと前面に出て、報道陣に直接警告すればよかったとの反省もあるが、長期戦の恐れもあり体力的な限界も考慮し、市の災害対策本部という組織を通じるより他はなかった」

 2019年に出版された、太田さんが噴火災害の経過を記した「雲仙普賢岳噴火回想録」には無力感と後悔の念がつづられる。「あの時、こうしていれば」と考え続けた三十余年だった。

 1998年に定年退職後は、地震火山観測所から名前を変えた地震火山観測研究センターに毎日のように通い、過去の観測や対応の記録をまとめた。2007年になって噴火に関する警報の発表が気象庁の業務に加わり、太田さんは警戒区域の設定などでも積極的に提言を続けた。

報道陣や自衛隊の指揮官(右端)に被災状況を説明する太田一也さん(中央)=1991年6月4日、飯ケ浜誠司撮影
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 「回想録」出版後も鉛筆を持って執筆を続け、今年3月、一般向けの学術書「雲仙火山」(1984年)の増補改訂版を自費出版した。旧知の元技術職員や出版社とやり取りしながら約5年がかりで書き上げた。

 持ち続けているのは「犠牲者が出るのを防ぐために、こういう前兆があって噴火に至った、大きな地震に至ったと多くの人に知ってほしい」との強い思いだ。

 改訂版では大きな被害を出した90~95年の「平成の噴火」活動に関する知見や、引き金となった84年の地震活動、地元紙に呼びかけて集めた、22年に死者20人以上を出した島原地震の証言や古写真などを新たに盛り込んだ。マグマだまりの位置を推測するのに重要な役割を果たした温泉に関する基礎的事実や雲仙の火山のタイプについても解説し、専門知識がなくても読める内容となっている。

 島原半島の旧国見町(現長崎県雲仙市)出身で幼いころから雲仙岳を見上げてきた太田さんは、現在、島原市の介護施設で車椅子生活を送る。「地震や噴火はまた必ず起きる。過去にどのような災害が起きたかを知ることが命を守ることにつながるのです」。そして、こう訴えた。「島原半島に住んでいる人みんなに読んでほしい。自分と家族の身を守るために。行政の人には、地域社会を守るために。私の遺言です」【森永亨】

雲仙・普賢岳の噴火災害

 1990年11月17日、長崎県の島原半島にある普賢岳が198年ぶりに噴火。翌91年6月3日に大火砕流が発生し、消防団員12人▽警察官2人▽市民6人▽火山学者3人▽タクシー運転手4人▽新聞・放送関係者16人(うち毎日新聞関係者はカメラマンと自社の運転手、技術員の3人)――の計43人が死亡・行方不明となった。96年6月3日の終息宣言までに計44人が犠牲となり、建物被害は2511棟、被害総額は2299億円。噴火で形成された溶岩ドームは約1億立方メートルと推定され、今なお崩壊のおそれがある。

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