殺人事件で妹を失った兄として、男性(34)は2014年から学校や警察署で講演活動を始めた。聴衆を前にすると最初は緊張するが、自分の言葉に耳を傾けてもらうだけで、すごく安心するという。「誰かに話を聞いてもらうことで、これまで思ってきたことを整理できる。公開カウンセリングを受けている感覚。事件当時は、なかなか言葉にできなかったから」(全2回の2回)
長崎県佐世保市で04年6月1日に起きた小学6年生の女児(当時11歳)による同級生殺害事件。被害者の御手洗怜美(さとみ)さん(当時12歳)は、男性の妹だ。3人兄妹の次兄で当時、妹と3歳違いの中学3年生だった。
「あの日」は昼休み後の授業が突然、自習になり、担任の先生から校内のカウンセリングルームに行くように指示された。待っていた7、8人の先生に囲まれ、校長先生から事件を伝えるネット記事をプリントアウトしたものを渡された。先生たちは泣いたり、うつむいたりしていたが、どんな感情や反応を示せばいいか分からず、無言でうつむいた。「とにかく早く、父に会いたかった」
だが、迎えに来た父恭二さんは顔色を失い、別人のようだった。「父まで失うのではないか」。急に怖くなり、安心させるために父の前では笑顔でいようと決めた。
その後は、できるだけ気丈に振る舞うように努めた。妹の同級生は心のケアが必要だとしてカウンセリングを受けるよう案内されたが、実の兄である自分には、そうした声はかからなかった。「周りの大人に腫れ物扱いされていたように感じた」
母は3年前に病死し、大学生の兄は徳島市にいて、妹がいなくなった自宅は父と2人きり。父は事件の翌年に転勤することになり、共に福岡県に引っ越した。本当は友人のいる佐世保市に残りたかったが、父は認めてくれなかった。
心の悲鳴が体にも
福岡県の高校に進学し約1カ月が過ぎた頃、登校して校門をくぐったところで急に足が進まなくなった。「もうすぐ授業が始まるのに」。自分でも理由が分からず、体を引きずるように保健室へ向かった。そこで養護教諭に妹が殺害されたことを打ち明けた。第三者に事件のことを話すのは、その時が初めてだった。
翌日から保健室に登校する日々が始まった。父には秘密にしていたが、しばらくして高校から出席日数不足の通知が自宅に届き、父に事情を尋ねられた。「きつい」。事件後、怖くて口にできなかった弱音を初めて吐いた。父は受け止め、高校を退学することに同意してくれた。カウンセリングにも連れて行ってくれた。「心配かけても大丈夫なんだ」とようやく思えたことを覚えている。
気がついた「自分と同じだ」
その後、事件について講演する父に同行する機会が増えた。中学生や高校生に向けて命の大切さを訴える父。会場で他の事件の被害者遺族にも会い、それぞれ事件から長い時間が過ぎても苦しみ続けていることを知った。「自分と同じだ」
男性は、加害女児が妹を殺害した理由を探し続けていた。自宅に遊びにきたこともある女児は「どこにでもいる普通の子」に見えた。事件前、妹から女児との交換日記のやりとりなどを巡ってトラブルになっていることを打ち明けられたが、よくある小さなケンカだと思い、重く捉えずに助言した。
「あの助言が、事件の原因になったのだろうか」「他に何かできることはあったのか」。自問自答を繰り返して生きてきた自分自身と、他の被害者遺族の姿が重なった。
妹を失ってから10年が過ぎていたが、「自分にも話せることはあるかもしれない」と講演活動を始めた。犯罪被害者支援センターなどを通じて警察や被害者支援団体、大学などから依頼を受け、これまで北海道から鹿児島まで20カ所以上を回った。事件を知らされたのが校内だったため、学校という場所自体がトラウマになったこと。心に傷を負った子どもは、なかなか思いを表現できないこと。きょうだいを殺され、遺族となった未成年を早期に支援する体制を整えてほしいこと――。感じてきたことをありのままに伝えてきた。
自分の講演をきっかけに被害者支援の体制が整い、「もう講演しなくても大丈夫」と言われる日が来ることが目標だ。「当時の自分のように苦しむ子どもを減らしたい」。そう強く願う。その上で、男性は今も加害女児からの謝罪の言葉を待ち続けている。決して忘れることができない事件と向き合い続けるためにも、「謝ってもらうことが、一つの区切りにはなると思う」。【河慧琳】
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