自宅リビングの仏壇の横には今も真っ赤なランドセルが置かれている。中にはドリルや社会科のノート、授業中にこっそり友達と交換したとみられる手紙、大切に持ち歩いていた家族の写真――。
20年前の6月1日、娘が元気に登校していった当時の状態のまま、触らずに保管してきた。宿題用の国語の音読カードを引っ張り出すと、保護者のサイン欄に幼い字で「父」とあった。「俺に見せずに、自分で書いたな」。いたずらっぽく笑う娘の顔が浮かび、自然と頰が緩んだ。
2004年6月1日、長崎県佐世保市で起きた事件で小学6年生だった長女怜美(さとみ)さん(当時12歳)を失った毎日新聞元佐世保支局長、御手洗恭二さん(65)は今春、手つかずだった遺品の整理を始めた。約6年前に会社を定年退職。年齢とともに体力が衰え、いつまで自分で保管できるか分からない不安があった。「遺品を見返すと思い出から抜け出せなくなるので、触れないようにしてきた。でも、もう20年だからさ」
「娘さんが、けがをしました」。事件を知ったのは、学校からの電話だった。駆けつけると、教室の入り口付近に血だまりがあり、怜美さんがうつぶせで倒れていた。抱き上げたかったが、腰が抜けて動けなかったことを覚えている。加害者として長崎県警に補導された当時11歳の同級生は以前、自宅に遊びにきたこともある女児だった。
記者の責任と父として
その後は嵐のような日々だった。職場兼住居だった佐世保支局には、大勢の報道陣が押し寄せた。同時並行で葬儀も進めなければいけない。当時のメモには何度も「家族を守る」と書いてある。事件当日に記者会見を開いたのは、自身も取材記者として歩んできたことの責任と、自ら表に立つことで当時中学生と大学生だった2人の息子に取材が及ぶのを避けたいとの思いがあったからだ。
自分自身を守ることにも必死だった。平穏な生活を早く取り戻すため、家庭内で「事件」を話題に出すことを避けた。ホームビデオを再生すれば、生きていた頃の怜美さんに会える。だが同時に、娘がいない現実を突き付けられた時に自分がどうなってしまうのかと考え、再生ボタンを押せなかった。
世間が納得する「被害者」でいなければいけないようにも感じた。街を歩くと、全く知らない人から「大変でしたね」と声をかけられた。「悪気はないことは分かるが、驚くし怖かった」。買い物に行く時は、知人とできるだけ会わぬよう、自宅から離れた隣町のスーパーに自然と足が向いた。
事件当時、長男は徳島市の大学に通い、離れて暮らしていた。妻は事件の3年前に病死。怜美さんがいなくなり、突然「父と2人暮らし」になった次男に、どう接していたかは、あまり記憶が無い。事件の翌年、仕事の都合で福岡県に引っ越すことになった際、次男は佐世保市に残って高校に進学することを希望したが、認めなかった。「一人になるのが怖かった」からだ。
つのる「なぜ」、心の整理つかず
事件の真相が分からず、なかなか区切りが付けられなかったことも背景にある。加害女児は刑事責任に問えない14歳未満の「触法少年」だった。家裁で非公開で開かれた審判の報告書を読み込んだが、なぜ怜美さんが殺害されなければならなかったのか、納得できる答えは見つけられなかった。加害女児の情報は、送致された児童自立支援施設にいる間は児童相談所から「ごくわずかな内容」だけが報告された。更生の妨げになるとして、厚生労働省は遺族が施設職員と面会することも認めなかった。
加害女児は既に成人し、一般社会で暮らしているはずだ。だが、どんな処遇を受け、どう更生し施設を出たのかは、事件から20年がたった今も分からない。「どう生きているかを考えることはある。再犯だけは絶対にしないでほしい」と御手洗さんは言う。
昨春、長男の娘が事件当時の怜美さんと同じ小学6年生になった時には「バカみたいな話だが、6月1日まで『何もないといい』とずっと思っていた」。怜美さんの命日が過ぎ、心底ほっとしたという。
御手洗さんは20年の歳月を「事件で無理やり生み出された状況が、段々と日常として定着した感じ」と表現する。一方で「(心の)傷はやっと、かさぶたになったぐらい」とも。
事件後に依頼を受けて講演した際は、中学生や高校生を前に「人を殺しちゃだめだ」と訴えた。「子どもが死ねば、親はどれだけ苦しむか。それを知ってほしかった」
これ以上、事件によって自分の人生や家族を振り回されたくないと、もがき続けた20年。事件後に誓った通り、今も家族に思いをはせる。「事件と自分との終着点は今も見えないが、息子2人の家族が穏やかに生活できれば、俺は幸せだ」【河慧琳】
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小学校で11歳の女児が同級生を殺害した衝撃の事件から20年。事件に翻弄(ほんろう)され続けた遺族の父と兄が「当時」と「今」を2回にわたって語る。(第1回)
佐世保小6同級生殺害事件
2004年6月1日、長崎県佐世保市立大久保小学校の「学習ルーム」で、同校6年生だった御手洗怜美さん(当時12歳)が、同級生の女児(同11歳)にカッターナイフで切り付けられ、失血死した。女児は補導され、長崎家裁佐世保支部が同年9月、児童自立支援施設に送致する保護処分を決定した。現在は社会復帰したとされる。
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