最大震度7を2度観測した2016年4月の熊本地震では、家屋倒壊など直接の被害で50人が亡くなった。あれから8年。遺族らは、かけがえのない人を亡くした喪失感を抱えながら、周囲に支えられて歩みを進める日々を過ごしてきた。しかし、今年1月には能登半島地震が発生し、またも多くの犠牲者が出た。熊本の遺族たちは、繰り返される悲劇に胸を痛めながら、能登に思いをはせている。
「けがせんごつ、病気せんごつ(けがしないように、病気しないように)頼むね」。熊本地震で、長女高田一美(いちみ)さん(当時62歳)を亡くした郷テルミさん(88)は毎朝、熊本県南阿蘇村立野の自宅で遺影に語りかける。米寿になり、つえが必要になった。
郷さんは観光地・阿蘇の玄関口となっている立野地区で生まれ、3人の子を育てた。地震前に夫を亡くしてからは1人暮らしで、一美さんが近くに家族と住み、障害者施設で勤務しながら買い物や庭の手入れをしてくれた。働き者でいつも忙しそうだったが「退職したら一緒にどこかへ行こう」と声をかけてくれた。
8年前の4月16日未明、郷さんは自宅で2度目の激震となる「本震」に襲われ家財道具が倒れてきたが、寝ていたこたつが体を守ってくれた。傾いた自宅から携帯電話の明かりを頼りに外に出て、一美さん宅へ向かったが木造2階建ての家はつぶれていた。
一美さん宅前に座り込んで娘の無事を祈ったが、そのまま帰らぬ人に。対面した一美さんに郷さんは絞り出すように言った。「どうしてあんた、死んだすかい(死んじゃったの)」
地域も地震で大きく傷ついた。大規模な土砂崩れが相次ぎ、村中心部と地域を結ぶ道路にかかる阿蘇大橋は崩落。全360世帯が長期避難世帯に認定され、住民は地区外へ出た。
「泣いとったって仕方ない」。郷さんは約10キロ離れた同県大津(おおづ)町の仮設住宅で暮らしていたが、19年5月に自宅敷地の倉庫を改修して再び住み始めた。地区の人口は地震前の6割弱(524人)にまで減ったが、訪ねてくる孫やひ孫、一緒に輪投げを楽しむ地域のお年寄りらに支えられ、静かな暮らしを取り戻すことができた。
そんななか発生した能登半島地震。大切な人を亡くした遺族と自身が重なった。郷さんは被災者に「悲しみを1人で耐えるのはつらい。周囲に助けを求めてほしい」と思う。一美さんを亡くした後、元気で過ごせたからこそ周囲の人々の大切さを感じられたからだ。
同県益城(ましき)町で倒壊した木造2階建て自宅の下敷きとなり母宮守陽子さん(当時55歳)を亡くした長女(31)も、能登に記憶を重ねる。ニュースで見る被害の様子に「自分が見た景色と全く同じだ」と絶句した。次女(28)は「被災した方は家族を亡くし、悲しくて生きていけないと思うかもしれないけど、時間がたったらおいしくご飯を食べたり、幸せだなと思えたりすることがあると思う。とにかく生きていて」と願う。
3月、長女に初めての子どもが生まれた。女の子だった。長女は出産後、孫の存在を母に感じてもらいたくて、母を弔っている町内の寺へお参りに行った。「お母さん、無事に生まれてきたよ。すくすく育つよう、これからも見守っていてね」。悲しみは尽きないけれど、あすはもっといい日になると信じている。【中里顕、中村園子】
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