亡くなった長女高田一美さんの遺影の前で思い出を語る郷テルミさん=熊本県南阿蘇村で2024年4月11日午前10時16分、中里顕撮影
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 最大震度7を2度観測した2016年4月の熊本地震では、家屋倒壊など直接の被害で50人が亡くなった。あれから8年。遺族らは、かけがえのない人を亡くした喪失感を抱えながら、周囲に支えられて歩みを進める日々を過ごしてきた。しかし、今年1月には能登半島地震が発生し、またも多くの犠牲者が出た。熊本の遺族たちは、繰り返される悲劇に胸を痛めながら、能登に思いをはせている。

 「けがせんごつ、病気せんごつ(けがしないように、病気しないように)頼むね」。熊本地震で、長女高田一美(いちみ)さん(当時62歳)を亡くした郷テルミさん(88)は毎朝、熊本県南阿蘇村立野の自宅で遺影に語りかける。米寿になり、つえが必要になった。

全壊した自宅の跡地を歩き地震前の暮らしを語る郷テルミさん=熊本県南阿蘇村で2024年4月11日午前11時25分、中里顕撮影
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 郷さんは観光地・阿蘇の玄関口となっている立野地区で生まれ、3人の子を育てた。地震前に夫を亡くしてからは1人暮らしで、一美さんが近くに家族と住み、障害者施設で勤務しながら買い物や庭の手入れをしてくれた。働き者でいつも忙しそうだったが「退職したら一緒にどこかへ行こう」と声をかけてくれた。

熊本地震で亡くなった高田一美さん=遺族提供
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 8年前の4月16日未明、郷さんは自宅で2度目の激震となる「本震」に襲われ家財道具が倒れてきたが、寝ていたこたつが体を守ってくれた。傾いた自宅から携帯電話の明かりを頼りに外に出て、一美さん宅へ向かったが木造2階建ての家はつぶれていた。

 一美さん宅前に座り込んで娘の無事を祈ったが、そのまま帰らぬ人に。対面した一美さんに郷さんは絞り出すように言った。「どうしてあんた、死んだすかい(死んじゃったの)」

地震で亡くなった長女高田一美さんの遺影の前で思い出を語る郷テルミさん=熊本県南阿蘇村で2024年4月11日午前10時8分、中里顕撮影
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 地域も地震で大きく傷ついた。大規模な土砂崩れが相次ぎ、村中心部と地域を結ぶ道路にかかる阿蘇大橋は崩落。全360世帯が長期避難世帯に認定され、住民は地区外へ出た。

 「泣いとったって仕方ない」。郷さんは約10キロ離れた同県大津(おおづ)町の仮設住宅で暮らしていたが、19年5月に自宅敷地の倉庫を改修して再び住み始めた。地区の人口は地震前の6割弱(524人)にまで減ったが、訪ねてくる孫やひ孫、一緒に輪投げを楽しむ地域のお年寄りらに支えられ、静かな暮らしを取り戻すことができた。

全壊した自宅の跡地を歩き地震前の暮らしを語る郷テルミさん=熊本県南阿蘇村で2024年4月11日午前11時25分、中里顕撮影
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 そんななか発生した能登半島地震。大切な人を亡くした遺族と自身が重なった。郷さんは被災者に「悲しみを1人で耐えるのはつらい。周囲に助けを求めてほしい」と思う。一美さんを亡くした後、元気で過ごせたからこそ周囲の人々の大切さを感じられたからだ。

 同県益城(ましき)町で倒壊した木造2階建て自宅の下敷きとなり母宮守陽子さん(当時55歳)を亡くした長女(31)も、能登に記憶を重ねる。ニュースで見る被害の様子に「自分が見た景色と全く同じだ」と絶句した。次女(28)は「被災した方は家族を亡くし、悲しくて生きていけないと思うかもしれないけど、時間がたったらおいしくご飯を食べたり、幸せだなと思えたりすることがあると思う。とにかく生きていて」と願う。

 3月、長女に初めての子どもが生まれた。女の子だった。長女は出産後、孫の存在を母に感じてもらいたくて、母を弔っている町内の寺へお参りに行った。「お母さん、無事に生まれてきたよ。すくすく育つよう、これからも見守っていてね」。悲しみは尽きないけれど、あすはもっといい日になると信じている。【中里顕、中村園子】

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