城が好きだ。彦根城や安土城のような有名な城だけでなく、僅かな遺構や伝承を残すだけの小さな城にも、大きな魅力を感じる。ある五月晴れの日に訪ねたのは、「和田城館群」。JR草津線油日(あぶらひ)駅の南に広がる滋賀県甲賀市甲賀町の和田地域一帯で、室町幕府最後の将軍、足利義昭にゆかりがある。その中の義昭を巡るいわく付きの場所が一番のお目当てだ。
巻物を持った忍者を模した外観の油日駅で城館群について尋ねた。応対してくれたのは同市に委託されて駅を管理する「油日駅を守る会」の山下正義さん(79)。「NHK大河ドラマ『麒麟(きりん)が来る』で、滝藤賢一さんがこれまでにない深みのある義昭を演じ、城館群も紹介された。当時はこんな田舎に観光バスが何台も来たよ」
パンフレットによると、城館群は中心的城郭の和田城など七つの城で構成される。まずは駅最寄りの殿山城だ。途中のグラウンド脇に「幻の和田城」と記された高さ3メートルほどの模型があった。地域が和田城を誇りとしていることが伝わる。数十段の石段を登ると「殿山城跡」との看板を見つけた。遺構らしきものはなかったが気落ちはない。殿山城の南が目的の場所だ。
公方屋敷跡があるのだが、そこに義昭が潜伏したという。1565年、第13代将軍・足利義輝が三好三人衆らに暗殺されると、その弟の僧・覚慶は奈良で幽閉される。それを救ったのが、和田を拠点とした戦国武将・和田惟政(これまさ)だが、その覚慶こそ、後に名を改めて織田信長の後ろ盾で将軍となる義昭である。
生き永らえた若者が後世に名を残す転機となった。その場所には惟政の供養塔と伝わる五輪塔が新緑の中でたたずむだけだったが、激動の戦国史の舞台だったと思うと身震いした。近くを流れる和田川を挟んだ対岸には公方屋敷支城跡があり、くの字型の堀のような池と土塁が残っていた。
公方屋敷支城跡の南西に連なる丘陵には、和田支城跡Ⅰ~Ⅲが北から逆順に並ぶ。それぞれ距離が近く、連携して一番奥に控える和田城を守っていたと考えられる。最初に着いた支城跡Ⅲは入り口に看板があり、登った先に曲輪や土塁とみられる遺構があった。
そこから支城跡Ⅱに向かった。丘陵の山道が城跡を結んでいるように思え、そのまま進んだ。それが大きな間違いだった。
木に結ばれたビニールひもを目印に歩いたが、行けども行けども支城跡Ⅱに着かない。スマホのGPSで確認すると西にそれていた。引き返そうかとも思ったが、近くにはいるようだったので、強行突破を選んだ。2度足を滑らせて尻餅をついた。クモの巣を払いながら道なき道を進んでいた時だった。堀切のような場所を見つけた。城の遺構かどうかは定かではない。だが、そこに立つと山道を歩いて速くなっていた鼓動が更に速くなった。子供の頃の探検ごっこのような高揚感だった。その先の支城跡Ⅱも、続く支城跡Ⅰもハイテンションのまま探索した。
最後の和田城跡は、城館群の中心にふさわしい威容を残す城跡だった。最大7メートルの高さを誇る土塁で約20メートル四方を囲った主郭、その入り口の虎口(こぐち)、主郭を囲う脇曲輪、幅10メートル高さ7メートルを誇る巨大な堀切などが美しく残っていた。油日駅出発から約3時間、歩数は2万歩に近づき疲れてもいたが、虎口の向こうから西日が差し込む幻想的な光景に、戦国の世の幻を見た気がした。
油日駅に戻り、登城記念の「御城印」を買うため、近くの文具店を訪ねると、店主は山下さんだった。「お疲れ様。どうだった?」。城巡りかハイキングか探検ごっこか分からなかったが、即答した。「大満足です!」
近江の城は1300以上ある。まだまだ、探訪は続く。【礒野健一】
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