生家の創業は1689年の江戸時代

大分県南部に位置する城下町・佐伯市は、海や山の幸に恵まれ、食材が豊富。街の中心部に、1689 年(元禄2年)創業、335 年の歴史を持つ「糀屋本店(こうじやほんてん)」がある。店を切り盛りするのは、9代目の浅利妙峰(あさり・みょうほう)さん(71)だ。

浅利さんは自らを「こうじ屋ウーマン」と名乗り、経営のかたわら世界を駆け回り、こうじの魅力を発信し、食を通した健康維持の普及に努めている。これまで、10か国以上でこうじの持つ酵素のパワーなどを伝え続けてきた。

「糀屋本店」(大分県・佐伯市)

こうじとは米・麦などの穀物に、こうじカビを繁殖させたもので、古くからみそやしょうゆ、清酒造りなどに役立てられている。 多くの酵素を持っていて、タンパク質分解酵素だけでも100種類以上が存在する。

中でも三大栄養素の炭水化物をブドウ糖に、脂肪を脂肪酸などに分解、またタンパク質をグルタミン酸やアミノ酸などの、うま味成分に変える。肉や魚、野菜などの持ち味を消さず、味わいを深くする。

企業の思いや開発秘話を深掘りする企画『DIG Business』。今回は、こうじ文化を発信する老舗の歩みを取材した。

先代が体調崩し、存続の危機

1945年に戦争が終わり、高度経済成長期へと移行した1955年頃から、社会環境の変化に伴い、欧米の食文化の普及と女性の社会進出が増えるようになり、家事の合理化や時間短縮が求められるようになった。この影響で、各家庭で作られていた伝統食のみそやしょうゆといった発酵食品は、大手メーカーから購入するように変わっていった。

手間のかかるものは隅っこに押しやられ、こうじの活躍の場は家庭から失われ、全国に存在していた醸造所や、こうじ関係の店舗は次第に減っていった。「糀屋本店」も例外ではなく、売上げは低迷が続き、規模を縮小せざるを得なかった。 商いが下降気味の中、2005年、8代目が体調を崩し、存続の危機に直面する。

ニーズを見据え、老舗の強み、弱みを明らかにし、思案を巡らせる中で、「こうじを扱う自分たち自身が、こうじの素晴らしさ伝えきれていないのではないか」「『糀屋』の衰退は、こうじをよく知ろうとしなかった『怠慢』ではないか」と考えるようになったという。

こうじづくり

日本の食を支え続けてきた発酵調味料の源であるこうじが、なぜ消費者の好みから遠のき、衰退しているのか。再び光をあてることはできないか。原点に返り、伝統的なこうじについての知恵を手探りし始めた。

「本朝食鑑」との出会い 転機になると直感

浅利さんは、発酵食品の歴史や使い方などを古い文献で探す中、江戸時代に出版された「本朝食鑑」に出会った。この本は食のバイブルとも言われ、日本の食物全般について、食べる方法などを詳しく説明している。

この中に「塩麹漬」の記述を発見。新たに店で生まれることになる「塩糀」のヒントになった。

「『やったー。見つけた!』とか、驚いたり、大喜びしたりはしませんでした。『へー、ここに塩麹漬って書いている』と、比較的落ち着いていられたのは、こうじを何とかしなければいけないという、使命感からだったのでしょう。それでも、私にとっては暗い闇に灯された、1本のろうそくのように胸中に輝き始めました」

このとき浅利さんは、なにか面白い転機になると直感したそうだ。

「塩糀」ついに完成…9代目社長に

浅利さんは、塩こうじを漬け床ではなく、調味料とする可能性を求め、配合を工夫した。そして、こうじ・塩・水を合わせて1週間寝かせたものでイカの塩辛を作ったところ、混ぜ込んだ瞬間に、漬け床の3日目の味と変わらない、格調高いものに仕上がったという。このとき、食材の持つうま味を引き出す力があることを実感した。

そして、これがみそやしょうゆに並ぶ調味料の一つとして広く認知されるようになれば、多くの人に受け入れられると確信した。配合を調整し、発酵調味料「塩糀」と名付けて 、2007年に商品化。ブログなどで使い方を発信する一方、店舗ではこうじを使った料理講習会も始めた。

認知度はなかなか上がらなかったが、使ってくれる周囲の評判はよかった。コツコツと発信を続けていると、徐々に雑誌や口コミ、ネットでも話題になり、大ヒットする2011年の初めまでは、一人勝ちの状態が続いた。

「塩糀」を商標登録しなかったことで、多くのこうじ製造業者や大手メーカーも追随を始め、塩こうじを扱う市場は、健康志向も後押しして急拡大した。そして2012年に浅利さんは、取締役から9代目の社長に就いた。

社長になったころ(2012年)

「元々、社長を継ぐように育てられたので、違和感はありませんでした。こうじの神様が、私に白羽の矢をたてたのなら、受けて立つ」

「こうじの神様はいつもそばにいて、パワーをくれる」

「こうじの神様はいつもそばにいて、困った時はそっと乗り越えるパワーを送ってくれる。幼いときから糀屋で育ち、杜氏と寝食を共にしてきたので、門前の小僧のように、こうじについての道理は何となくわかる。自分に与えられた運命を、しっかりと受け止めて、こうじを極める道をひたすら邁進すれば良い」

浅利さんは、正面から向き合おうと、強い気持ちになったと話す。

2012年、こうじの素晴らしさや効果効能をより普及させるため、海を渡った。最初はアメリカ・ニューヨークで料理講習会を開き、西海岸のロサンゼルス、サンフランシスコなども訪問した。

浅利さんは体によいものは、海外でも通用するに違いないと確信していた。 講習会にはシェフや、料理に関心を持つ人が参加し、食材の持ち味をいかす塩こうじのパワーに興味津々。料理は参加者の舌を驚かせ、これまでにない新鮮で深い味わいは、評判を呼んだ。

「歩んできた道は間違っていなかった。海外で、こうじの力を認められたのはうれしかった」

ニューヨークでの講習会(2012年)

「こうじの効果効能や、素晴らしさに科学がようやく追いついてきたと感じています。人生で大切なのは、周囲の人と一緒になって、ともに幸せを分かち合える心の豊かさです」

「こうじ屋ウーマン」永遠に

「夢はこうじ文化を世界中に広め、食卓に笑顔が集い、みんなのお腹を元気にして命を輝かすことです。ジャンヌダルクのように、こうじの御旗を高く掲げて、ノーベル平和賞を目指します(笑)」

こうじの話を始めると、とめどなく言葉があふれ、それでいてウィットにあふれる内容は、聴いていて飽きることがない。

「『塩糀』を商標登録しなかったのは、いいものをどんどん広げていきたかったからです。まねされても、一向にかまわない、本望です。まねされたら、次を考えたらいい」

こう言い切る、浅利さんの高い精神性には驚かされる。

こうじの普及のために、プロデューサーとディレクター、それから演者までこなすのを見ていると、まさに化身か、伝道師ではないかと見まごうほど。「こうじ屋ウーマン」の面目躍如たる活躍をみていると、これからも業界のトップを走り続けることを確信した。見えなくても存在を感じる、こうじの神様とともに。

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