終戦直後、樺太から引き揚げていた3隻の船が留萌沖で攻撃され、1700人以上の乗客が命を落とした三船遭難事件。79年目を迎えた2024年、海底に沈んだ船の調査が行われました。
浦環さんの取り組み
79年前、樺太から引き揚げていた3隻の船が、留萌沖で攻撃され1700人以上が犠牲になった三船遭難事件。
2024年、海底に沈んだ船の調査に乗り出した人がいます。浦環さんです。
「事実を明らかにしたくてやってる。ゆっくりやろう、焦らないで」(東京大学名誉教授 浦環さん)
浦さんは、40年にわたって海中ロボットの開発を行い、これまでさまざまな沈没船の調査に取り組んできました。
「きちんとした地図を作りたい。それをステップにして潜水する。ダイバーが行くことができるようになる」(東京大学名誉教授 浦環さん)
最新鋭機器を使った沈没船の調査
79年前、終戦から1週間たった1945年8月22日、樺太から北海道へ引き揚げていた3隻の船が旧ソ連軍の攻撃を受けました。多くの女性や子どもが乗った「小笠原丸」と「泰東丸」の2隻が沈没し、いまも留萌沖に残されています。
今回の調査では最新鋭の機器「マルチビームソナー」を導入。海底に音波を発射し、跳ね返ってくるまでの時間をもとに、2隻が海底でどのような状況にあるのか、立体図をつくることを目指します。
調査への期待を寄せる三上さん
今回の調査に期待をよせる人がいます。三船遭難事件の慰霊碑を前に手を合わせる三上昌文さん(70)です。
2023年亡くなった三上さんの母・澄子さん(享年90)は、79年前に攻撃された引き揚げ船のひとつ「第二号新興丸」に乗船していました。
「去年亡くなった母が毎年個人で供養をしてきたが、息子である私が自分が元気な間は母の意思を受け継いで供養を続けたい。母はいつも、『海の底に沈んで引き揚げられていない方がたくさんいるので、なんとか自分が生きている間は手を合わせたい』と言っていた。ただそれだけで長生きしてきた。捜索によって何か新しい事実が判明すれば、皆さんに終戦の時に悲惨なことがあったんだということを思い起こして(もらえる)。少しでも遺骨が戻ってくればと、その延長として船の残骸や名残が見つかれば母も喜ぶんだろうなと」(母が引き揚げ船で生還 三上昌文さん)
調査の結果と今後の展望
三船遭難事件で沈没した船の調査をする浦環さん。
浦さんは調査の様子をインターネットで生配信していました。調査を進めると「小笠原丸」が。
「船の形が相当残っている。船首は?船首はこっちじゃないの?」(浦さん)
水深100メートルに沈む「小笠原丸」の姿をとらえることができました。
「ここから(留萌港まで)1時間30分くらいかかる。ただ(船長が)気が済むまでやっていいと」
「気が済むまでやろう」(浦さん)
当初探していた「泰東丸」も発見。タイムリミットの午後5時を過ぎ、もう少し調査するため時間を延長しました。そして発見したのが別の貨物船とみられる船でした。
「上から見ると船尾が丸くなっている。クリアに見えている。そこは窓?奥行がある、家になっている」(浦さん)
調査を終えた浦さんは…。
「ここにこういう形で船が沈んでいることを遺族に示すことができれば、自分たちの親が亡くなった場所がここにあると、その気になればいける。遺族や政治家がどうするか、新しい方針が立てられると思う。その材料を用意したのは重要な仕事だと思う」(浦さん)
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