【スポーツ】一般社団法人ロコ・ソラーレ(北見市常呂町)のカーリングチームは女子日本代表として平昌五輪で銅メダル、北京五輪では銀メダルに輝いた。本橋麻里代表理事にこれまでの歩みと、次世代を担う世界水準の選手の育成について聞きました。

15歳で出場した世界ジュニア スポーツマンシップアワードに感激

――カーリングとの出合いはいつですか?
本格的に始めたのは12歳です。地元の学校では冬の体育の授業にカーリングを取り入れ、強制的にやらされていましたが、別にピンときたわけではありませんでした。カーリングホールにたまたま友達と2人で遊びに行き、小栗祐治コーチ(常呂カーリング協会初代会長)に声をかけてもらって、そこから始めました。
――最初に出場したトリノ五輪(2006年)はそれから6、7年後ですね。
15歳で初めて世界ジュニアに行きました。世界ジュニアでは周りは大学生の選手ばかり。こちらは体がまだできていない状態で、フルボッコにされた感じでした。10チーム中の10位でしたが、(スポーツマンシップを示す行動や態度を見せた選手をたたえる)「スポーツマンシップアワード」をもらい、うれしくなりました。世界の選手と戦うおもしろさを体験する一方、成績は最下位で手も足も出なかったので、強くなりたいという純粋な思いで練習を続けました。高校を卒業するタイミングでは札幌に進学するしかないと考えていたときに、小笠原歩ちゃんと船山弓枝ちゃん(いずれも常呂出身)が働きながらカーリングができる環境を耕してくれた「チーム青森」が選手を1人探しており、青森に行きました。その翌年にオリンピックが開催されました。


世界のトップに立つチームは、女性の人生曲線を踏まえたチーム

――トリノ五輪はどんな場所でした。
1年前までオリンピックに行けるとは思っていませんでした。頑張ってポジションを取らなきゃとか、頑張って先輩に付いていかなきゃとか。そんな思いばかりでした。先輩たちは過去にオリンピックに出ており、五輪がどういう舞台か分かっていたのですが、私が世界選手権と同じ感覚で行ってみると、全然違っていました。選手だけではなく、ボランティアも集まる本当に大きな大会だったので、もう1回出たいという気持ちが何となく分かりました。
――その4年後のバンクーバー五輪(2010年)にも出場された後、大きな転機としてロコ・ソラーレを立ち上げました。どんな経緯でしたか?
 成績は急に上がったかと言うと、(そうではなく)強豪国になかなか勝てない時代がありました。日本では、みなさんが盛り上がってくださるのですが、「(日本の)レベルはそんなでもないんだよね」というギャップは当時、言えませんでした。私が出たトリノ五輪とバンクーバー五輪でスウェーデンのチームが優勝しました。トリノ五輪ではメンバー5人中2人がママさんでした。子育てをしながらオリンピックのファイナルに帰ってくることができる―。「化け物だな」と思いました。日本もこうならなければ、絶対勝てない相手だろうと(気づきました)。チームスウェーデンみたいに、女性の人生曲線を踏まえたチームを本当に作りたいと思いました。そうしなければ、女子チームの強化はいつか頭打ちになってしまう。そのとき頭打ちになっている雰囲気が既にあり、スウェーデンの金メダルを見てバンクーバー五輪の終了後、(自ら理想のチームを作ると)決めて、北海道に戻りました。


理想のチームづくりに失敗して散るなら故郷・常呂で 覚悟して設立

――チームは北海道、そして地元・常呂で作りたい気持ちがありましたか?
自分がやりたいことをして、(失敗して)散るとしたら、どの場所が良いかと、そこまで考えたんですね。私のチャレンジはだれもやったことがなく、失敗するってすごく(周囲から)言われたのです。失敗するとしたら、どこが良いだろうか―。そう考えて故郷で散ろうと決めました。すごく入念に計画立てて実行すると言うより、直感や感覚で考え、妄想みたいにイメージをして、どっちが自分がワクワクするか、頑張れるか、踏ん張れるかっていうふうに(その場その場の判断で)選んできました。
――どういうことから実践しましたか?
拠点を変え、チームを作りたいと説明すると、「既存のチームから良い選手だけを引っ張るのはやめて」って言われたのです。メンバーの進学で分裂するようなチームの中から、吉田夕梨花選手や鈴木夕湖選手に声をかけました。


完璧主義に限界 周囲に託すことで上がった仕事の質

――ロコ・ソラーレを作った後のソチ五輪(2014年)に出場できなかったときの思いは?
今だから言えるのですが、メディアの方が、私が日本代表から離れてチーム作って、次のソチオリンピックには出ますよね―という感じで振ってきて、私に「うん」と言わせたいと思われる質問を投げかけてきました。私の中ではソチ五輪も見てはいるけど、そこがメーン(の目標)ではなく、その後からスピード感を上げていく準備をしていました。スウェーデンの選手に良いイメージがあり、その(子育てをしながらプレーする)方向に行ければより良いチームができると思っていました。
――翌2015年にご出産を経験され、何か変わりましたか?
よくインタビューでカーリングが子育てに何か影響を及ぼしましたかって尋ねられます。
体力だけです。逆に育児、子育てがカーリングに及ぼす影響がすごく多くありました。できないことは人に助けを求めるようになりました。ご飯を食べたいときに子どもがぐずってしまったとき、先に食べ終わったメンバーが抱っこをしてくれたり、「麻里ちゃん、今食べて」と言ってくれたり。何でも完璧にやろうとした自分の弱さを見ることができ、人に託すことの大切さに気付き、それで仕事の質が上がることを学びました。


「メンバーの4人に託そう」 控えで出た平昌五輪で大きな心境の変化

――平昌五輪ではメダルを獲得しました。今振り返ると、どうでしたか?
完全にみんなに連れて行ってもらうオリンピックになっちゃいました。私は子育てをしながら本当にできる範囲の活動をさせてもらい、出場したオリンピックでした。カーリングは5人登録のうち4人がベストメンバー。私は控えでした。ゼロスタートで作ったチームの勝つことの意味だけを考えました。悔しさ半分、うれしさ半分でした。悔しさ100(%)がアスリートだと思い、これで良いのかという気持ちもありました。でも、本当に良いプレーを目の前で見て、他の4人に託せる大きな心境の変化が五輪期間中にあり、それも、これまでのオリンピックとは違う成果でした。


活動は世界一を目指す選手育成と、地域づくりの2本立て

――ロコ・ソラーレが一般社団法人として力を入れる取り組みは?
世界一を目指しています。その下に控える若い子の育成をメーンにしており、応援してくださるみなさんと、いかに楽しく一緒に時間を過ごせるかも大事にしています。人材育成と地域づくりが2本立てになっていますね。
――地域づくりは常呂に戻って来られたから、ずっと言われてきたことです。
ヨーロッパではサッカーチームの地元のまちにチームの旗が並んだり、レストランの席に地元のサッカークラブの旗が飾られたりしており、「スポーツってこうあるべきだな」って思います。非日常と日常を使い分けしなくても良いぐらい、生活に溶け込むのが私が本来、やりたいスポーツだと、遠征して勉強できました。(カーリングの)理想はスウェーデンのチームで、地元との関わり合い(の理想)はヨーロッパのサッカーチームだと思っています。


泣きながら、笑いながら、はい上がって挑戦する姿が理想

――ご自身とロコ・ソラーレの未来をお聞かせください。
本当に大きなイメージでは、ロコがいなくなるとさびしく、ロコがいると楽しいねって思ってもらえるチームを目指します。私達から発信するのは暗いニュースではなくて、常に挑戦をしていて、壁にぶつかって砕けることも多々ありますが、泣きながら、笑いながら、はいい上がって挑戦する姿は、スポーツでもまちづくりでも同じなので、それを象徴的に表せる団体でもありたいと思い、頑張っていきます。

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