太平洋戦争で日米が激戦を繰り広げたパラオ・ペリリュー島には今もなお多くの兵士の遺骨が眠る。13平方キロほどの小さな島で80年前に父や兄が戦死した遺族らが12日、「再会」を願い現地に向けて出発した。
遺族は、兄の関根実さん(当時22歳)を亡くした千葉県銚子市の丁子(ようろご)八重子さん(87)と、父の将一さん(当時24歳)を亡くした青森県六戸町の田中恭子さん(84)。2人とも第14師団戦車隊に所属していた。
旧防衛庁防衛研修所戦史室が編さんした「戦史叢書(そうしょ)」などによると、日本軍の戦車隊は島南西部に上陸した米軍によって壊滅させられた。戦車は湿地帯に捨てられ、長年地中に埋もれたままとなった。
厚生労働省から遺骨収集事業の委託を受ける一般社団法人日本戦没者遺骨収集推進協会(東京都港区)は2019年に現地で戦車5台を確認。22年に発掘調査を始め、これまでに2台を掘り出した。戦車にはそれぞれ日本の地名にちなんだ名前が付けられている。だが、2人が乗っていたとみられる「とね」「むつ」の戦車は見つかっていない。
3台目の調査は今年2月に始まり、戦車の周囲を掘った上で戦車内の遺骨を探している。DNA鑑定が見込める検体部位が採取できれば日本に送り、鑑定結果次第で遺骨を日本に持ち帰ることができる。
「どなたの遺骨でもいい。見つかってくれたら、もう私の身内だと思っています」。千葉の丁子さんは戦車の中から遺骨が見つかることを願っている。兄が出征する時、神社に集まった村中の人々の万歳三唱に見送られ、「行ってきます」と言った姿を丁子さんは今も覚えている。
最後に会ったのは7歳の頃で、実家に1泊した兄を見送るため、学校から急いで帰宅して夢中で駅に向かって走った。だが、先に電車が駅に着くのが見えた。「悔しくてぼろぼろ泣きながらうちに帰りました」
青森の田中さんには父の記憶はない。「全然知らない人を私はこうして捜し歩いているんです」と笑う。20歳で召集され、戦車隊の指揮小隊長としてペリリュー島に渡ったのは戦闘が始まる約4カ月前。「明るさと素直さを生かす如(ごと)く恭子の訓育を望む」。戦地から家族に宛てた手紙には娘を思う気持ちがつづられていた。家族からは優しい人だったと聞いた。
「期待しても期待外れになるかもしれない。だから少しだけ期待して毎朝仏さまに祈るんです。父がいた戦車じゃなくてもいい。どなたかのお骨が出てきてくれますようにと」
これまでに丁子さん、田中さんは2回、ペリリュー島を訪れた。年齢から考えて今回が最後の機会と思っている。遺族や関係者でつくる慰霊団は12日午後に成田空港をたち、13日にペリリュー島を訪れて、戦車の発掘調査を見守る。【井川加菜美】
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