記者会見するシリアのアサド大統領=カイロで2000年10月2日、AP

 8日にアサド政権が崩壊したシリアでは、父子2代にわたって50年以上、独裁政治が続いてきた。アサド大統領は2011年に始まった内戦でも国民に対し激しい空爆などを加え続け、最後まで恐怖政治をやめなかった。

 アサド氏は1965年、父のハフェズ・アサド大統領の次男として首都ダマスカスで生まれた。

 父親の後継者と目されていた兄バシル氏が94年に交通事故で死亡したのを機に、眼科医として留学していた英国から呼び戻された。その後、陸軍士官学校などで学び、後継者としての道を歩み始めた。

 00年にハフェズ氏の死去を受け、大統領に就任。英国への留学経験があることなどから、当初は民主化が進むのではとの期待もあった。

 ところがアサド氏は父と同様、情報機関などを使って監視体制を強化し、反体制派を抑圧。自身はイスラム教少数派のアラウィ派で、多数派のスンニ派住民を抑える形で統治を続けた。

 11年に中東の民主化要求運動「アラブの春」の波がシリアにも押し寄せると、国内では反政府デモが相次いだ。だが、アサド氏は軍や治安部隊を使ってデモ隊を激しく弾圧した。反体制派との内戦に突入し、自国民に対しても無差別空爆などを繰り返した。

 国連人権高等弁務官事務所などによると、内戦では21年3月時点で民間人30万6000人以上が死亡しており、このうち約2万7000人が子供だった。

 また、紛争を逃れて国外へ避難した難民も600万人以上に達した。収容した政治犯に対する拷問や殺害もきわめて大規模に行われたため、国民からの信頼はほとんど失われていたとされる。

 アサド氏はダマスカスが陥落した8日未明、首都を離れたと報じられている。だが詳細は分かっておらず、行方は不明だ。【カイロ金子淳】

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