ペルーのアルベルト・フジモリ元大統領=1990年7月28日、AP

 両親は熊本県出身で、日本名はケンヤ(謙也)という。日系2世のアルベルト・フジモリ氏は、日本人にとって最も身近に感じられた海外の元首だった。

 1990年のペルー大統領選で「誠実、勤勉、技術」という日本のイメージをアピールし、特に低所得者層から大きな支持を得た。泡沫(ほうまつ)候補から急浮上した勝利は「ツナミ」と形容された。

ペルーのアルベルト・フジモリ元大統領が死去した後、自宅に集まった報道陣=リマで2024年9月11日、ロイター

 91年7月、国際協力事業団(JICA、現国際協力機構)の日本人技術者3人がペルーで極左テロ組織に殺害された。96年12月には、左翼ゲリラが首都リマの日本大使公邸での天皇誕生日パーティーを急襲、72人を人質に4カ月間も公邸を占拠した。いずれもフジモリ氏のルーツである日本が標的になった。

 公邸占拠事件で、トンネルを掘って特殊部隊を突入させる作戦はフジモリ氏のアイデアという。部隊は人質71人を救出、ゲリラ14人は全員死亡した。日本人の指導者なら、ちゅうちょするであろう強硬策を冷徹に遂行できたのは、フジモリ氏がペルー人だからだと思う。

 そんなフジモリ氏を多くの日本人が支援した。失脚して東京で約5年間の亡命生活を送れたのは支援者がいたからこそだろう。その間に日本国籍も確認された。本人は乗り気ではなかったようだが、チリで軟禁中の2007年の参院選で国民新党の比例代表候補に担ぎ上げられた。

ペルーのアルベルト・フジモリ元大統領=1995年11月12日、ロイター

 内政面では、80年代のハイパーインフレを収束させ、ペルー経済を安定に導いた。テロ組織をほぼ壊滅させ、治安も向上させた。ペルーでのフジモリ人気は根強かった。数学者らしい合理的な思考の一方、頑固で、なんでも自分で仕切りたがるワンマンぶりが垣間見えた。長女ケイコ氏らの忠告に耳を傾けず汚職疑惑などで評判の悪い側近を重用し続けたこと、権力に固執したことが政治家としては致命的だったと思う。

 もっとも記憶されるべきは、92年の「上からのクーデター」である。フジモリ大統領が憲法を停止、国会を解散し全権を掌握した。独裁である。当時、ペルー国民の8割もが支持したが、民主主義を抹殺する暴挙だった。ペルー史に汚点として刻まれるだろう。【元メキシコ市特派員・庭田学】

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