ペルーのアルベルト・フジモリ元大統領=1990年4月、AP

 日系人で初めて大統領となり、日本大使公邸占拠事件で人質救出作戦を指揮した南米ペルーのアルベルト・フジモリ元大統領が11日、死去した。長女のケイコ・フジモリ氏が明らかにした。86歳だった。ケイコ氏はX(ツイッター)に「がんとの長い闘いの後、父は主の元に旅立った」と投稿した。

 フジモリ氏は在任中、破綻していた経済を立て直した一方、市民虐殺事件で禁錮25年の有罪判決を受け、2023年まで収監されていた。功罪両面でペルー社会を揺るがす存在だった。

 近年は舌がんなどで複数回の手術を受けるなど体調が悪化。たびたび病院に搬送され、入退院を繰り返していた。21年10月には心臓手術も受けていた。

 クチンスキ大統領(当時)は17年、健康上の理由からフジモリ氏への恩赦を発表したが、最高裁が18年に恩赦を無効と判断し、19年に再び収監された。23年12月に憲法裁判所が国に対し、高齢や健康面の悪化などを理由に即時釈放を命じ、再び自由の身になった。その後は政界復帰に意欲を示し、今年7月には、26年までに実施される次期大統領選に出馬する意向を固めたことを、ケイコ氏が明らかにしていた。

ペルーのアルベルト・フジモリ元大統領=リマで2007年12月、ロイター

 日本名は藤森謙也。熊本県出身の両親が移民としてペルーに渡り、本人は首都リマで生まれた。国立農科大で数学を教え、1984~89年は学長を務めた。

 90年当時のペルーは極左ゲリラに悩まされ、インフレが続いていた。この年の大統領選に既存政治からの脱却を掲げて出馬。急速に人気を集め、後にノーベル賞を受賞する作家バルガス・リョサ氏を破って初当選した。

 1期目は極左ゲリラを掃討して社会に安定をもたらし、インフレ解消にも努めた。貧困対策に力を入れたほか、経済の開放策に着手し、高度経済成長の基盤を作った。しかし権威主義的傾向を強めていき、92年に憲法停止、国会を閉鎖する自主クーデターで全権を掌握。国際社会から批判を浴びたが、95年に再選された。

 96年12月には、左翼ゲリラのトゥパク・アマル革命運動(MRTA)がリマの日本大使館を襲撃し、人質を取る立てこもり事件が起きた。フジモリ氏は強硬姿勢を貫き、翌年4月に部隊の突入を指示し、人質71人の救出に成功した。

 3選直後の00年9月、側近のモンテシノス元国家情報部顧問の汚職が発覚し、追い込まれて辞任。日本で事実上の亡命生活を送っていたが、05年11月に訪問先のチリで拘束され、07年9月にペルーに引き渡された。

 ペルー最高裁特別刑事法廷は09年4月、極左ゲリラ掃討中の軍特殊部隊による二つの市民虐殺事件に関し、フジモリ氏自身が指揮命令したとして禁錮25年を言い渡し、10年1月に最終審判で確定。その他、公金横領や盗聴などでも有罪判決が出た。

 長女のケイコ氏が父親の地盤を引き継ぐ形で11年と16年、21年の大統領選に出馬したが、いずれも決選投票で敗れた。

 フジモリ氏は96年に日系2世のスサーナ・ヒグチさんと離婚し、06年に日本で知り合ったホテル経営者の片岡都美(さとみ)さんと再婚した。チリで軟禁されていた07年には日本の参院選比例代表に国民新党から立候補したが、落選していた。

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