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イギリス史上最長の在位70年を記録した女王エリザベス2世。2022年9月8日に崩御してから2年が経過する。エリザベス女王の人気は未だに衰えていない。ロンドンの土産物店ではエリザベス女王のグッズが今も人気商品となっている。

世界が注目した2年前に何が起きたのか。私が体験したことを振り返ると、いかにエリザベス女王がイギリス国民に敬愛されていたかを改めて実感させられる。

ANNロンドン支局 佐藤裕樹

■王室声明「女王の健康状態に…」

「女王の健康状態に懸念がある」。2022年9月8日、英時間午後0時半に発表された王室の声明を見た時、私たちはすぐに“異変”を感じた。エリザベス女王が専属医師の診察を受けた結果だったという。今でこそチャールズ国王やキャサリン皇太子妃が、がんの罹患を公表しているが、ロイヤルファミリーの健康状態について存命中に言及されることは極めて異例なことだ。

すぐにでも女王が滞在していたスコットランドのバルモラル城に向かって取材したかったが、ちょうど私は取材で北欧フィンランドの森の中にいた。イギリスに戻るべくすぐに取材を切り上げた。

「首都ヘルシンキから車で4時間…私はフィンランドの田舎町で取材中だった」 この記事の写真

声明には「女王は安定した状態でバルモラル城にいる」とも書かれていて、すぐに亡くなる状況ではないと予想しつつ、エリザベス女王の回復を願った。

ところが道中、スマホでBBCを見ていると、キャスターの衣装が黒のスーツと黒のネクタイに変わった。ついにはエリザベス女王の健康状態を伝える特別番組が始まり、チャールズ皇太子(当時)やウィリアム王子(当時)ら家族が続々とバルモラル城に向かっていた。わずか2日前、トラス新首相を任命するエリザベス女王の笑顔の写真が公開されたばかりだった。

エリザベス女王はすでに歩行が難しくなっているとされていたが、健康状態に不安があるとは伝えられていなかった。

この写真が、女王の最後の姿になるとは私は夢にも思っていなかった。

「エリザベス女王が在位15人目の首相にトラス氏を任命した」

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■女王崩御 ロンドンの景色が一変

■女王崩御 ロンドンの景色が一変

エリザベス女王の崩御は9月8日の英時間午後6時半に正式に発表された。ちょうど私はヘルシンキ空港のチェックインカウンターに着いたところだった。ロンドン便の空席は1席しかなく、カメラマンとスタッフは翌朝の便での帰国を余儀なくされた。

私がロンドンに到着したのは日付が変わった9日未明で、空港の雰囲気はいつもより少し重いような気がした。すぐに自宅で喪服に着替えてからバッキンガム宮殿に向かった。女王崩御の報を受けたイギリスの様子をレポートするためだ。

移動中に驚いたことがあった。普段は広告や交通情報などが流れる道路脇やバス停などのあらゆる電光掲示板に、エリザベス女王を追悼する同じデザインの文字と写真が映し出されていたのだ。崩御の発表からわずか数時間後だった。予め来たる日に向けて用意されていたのだと感心した。

「ロンドン中心部ピカデリー・サーカスの大型電光掲示板でも女王を追悼していた」

午前3時のバッキンガム宮殿前には、世界中のメディアが集まっていた。そしてすでに多くの花が手向けられていた。夜が明けると、宮殿前は通勤前に花を手向けに来る人たちで溢れかえった。近くのスーパーなどで売られていた花が軒並み売り切れになっていた。

「バッキンガム宮殿の前には多くの花が手向けられた」

この後、チャールズ新国王が国王として初めて母のいない宮殿に入る。チャールズ国王を乗せた車が到着すると、集まった人たちがイギリス国歌「ゴット・セーブ・ザ・キング」を歌っているのが聞こえた。私は宮殿正面から少し離れたメディアエリア内に設置された階段の上にいたが、驚くことに国王は車を降り、弔意を伝える国民に握手で応えていた。

エリザベス女王の崩御は日本でも大きな関心があり、パリ、ニューヨークやバンコクといった世界各地のANNのスタッフがイギリスに向かってくれていた。

イギリスの君主の崩御は、エリザベス女王の父・国王ジョージ6世が1952年2月6日に亡くなって以来、約70年ぶりのことだった。スコットランドの取材を同僚に託して、私はロンドンで取材や情報収集にあたった。

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■「ロンドン・ブリッジ作戦」

■「ロンドン・ブリッジ作戦」

イギリスでは主要王族の死去に備えて、マニュアルや葬儀計画が準備されている。この作戦には橋の名前が付けられることが知られていて、エリザベス女王の場合は「ロンドン・ブリッジ作戦」だった。96歳のエリザベス女王の崩御に備えたオペレーションは、何十年も前から念入りに準備されていたと言われている。女王の秘書が、女王が亡くなったことを首相に伝える暗号は「ロンドン・ブリッジ・イズ・ダウン (ロンドン橋が落ちた) 」だったという。

作戦にはエリザベス女王の棺の運搬方法や国葬を行う日程などが定められていた。しかし、女王の崩御の公表が午後6時半と遅い時間だったこと、亡くなった場所がスコットランドだったことなどから、当初の想定から変更があったと思われる。公式発表の前に出回っていた国葬の日程に関する情報も、二転三転していた。

「棺にはバルモラル城の庭で摘まれた花とスコットランドで使われる王室の旗が置かれた」

9月11日、バルモラル城から初めて女王の棺が出てきた時、棺には王室の旗が掛けられていた。私はロンドン支局内で同僚が取材した映像やBBCの生中継を見ながら原稿を書いていた。調べてみると、王室旗には種類があり、これはスコットランドでのみ使用されるものであることが分かった。場所によって違うことは、その時まで私は知らなかった。70年ぶりの君主の崩御、そして新国王の即位を受けた式典や儀式は、伝える私たちにとっても当然初めてのことばかりだった。

■女王の棺がついにロンドンへ

エリザベス女王の棺がロンドンに到着したのは9月13日の夜だった。私は女王が戻るバッキンガム宮殿の前にスタンバイしていた。

「女王の棺がバッキンガム宮殿に到着。沿道からは歓声と拍手が沸いた」

この頃には、エリザベス女王が亡くなった悲しみよりも、女王の功績を称える声が強くなっていた印象だ。同時並行でチャールズ国王の即位にまつわる儀式などが行われていたのも影響したのだろう。

女王が長年生活したバッキンガム宮殿に棺が到着した際、雨の中、多くの人が集まった沿道からは大きな拍手と歓声が沸いていた。歓声に応えるかのように、棺を乗せた車は宮殿正面の前にある「ビクトリア女王記念碑」の周りを一周した。

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■棺の一般公開 弔問列は最大24時間待ち

■棺の一般公開 弔問列は最大24時間待ち

バッキンガム宮殿に到着した女王の棺は、翌14日にチャールズ新国王らに付き添われながら、ビッグ・ベンが有名なウェストミンスター宮殿(イギリス議会)に運ばれた。

そして棺は宮殿のホールで一般公開された。弔問のための列は、最大24時間待ちとなり、4日間でおよそ25万人(推定)が訪れたという。サッカー元イングランド代表のベッカム氏やメイ元首相も弔問列に並んでいたとして大きな話題になった(VIPや国会議員は行列に並ばなくても弔問することができた)。

「棺の一般公開。弔問の列は約8キロ先から始まり、最大24時間待ちに」

その弔問者の1人には私も含まれる。9月16日の午前10時、行列の最後尾はウェストミンスター宮殿から8キロも離れた公園の中にあった。行列の様子を、自撮りでレポートを撮影しつつ、実際に自ら並ぶことで、どんな人たちが何時間も並んでまで弔意を示そうとしているのかを体験したい思いがあった。

列は少しずつ、少しずつ前に進んでいく。止まることはほとんどないので、座って休憩することはできない。行列は蛇のようにクネクネと作られ、最初の公園を抜けるだけで3時間半もかかった。前の人を抜かす人はいない。高齢の方や子ども連れも多く、ゆっくりとした時間が流れていた。長丁場を覚悟して、スーパーの袋いっぱいに食料を入れて持っている人もいた。

公園を抜けると、行列は一般道やテムズ川沿いの遊歩道に続き、一定の間隔で警備員が配置されていた。並び始めてから4時間も経つ頃には、一緒に歩き続ける前後のグループと自己紹介を終え、仲良くなっていた。トイレや食事などの買い出しは、前後の人に声を掛けてから一時的に列を抜け、元の場所に戻ることができた。9月のロンドンは夕方から一気に肌寒くなる。“仲間”の1人は、テムズ川沿いの土産物店で「LONDON」と書かれたパーカーを購入して、寒さをしのいでいた。「ロンドンに住んでいる私が、高い土産物のパーカーを買うなんて」と笑っていた。朝から並び始めて、夜までかかるとは思わなかったという。

「女性は寒さのあまり、テムズ川沿いの土産物店で“LONDONパーカー”を購入」

10時間以上も行列の中にいると、体よりもメンタルがきつかった。「帰りたいが、もう10時間も並んだし」と思うと、行列から抜けることはできなかった。高齢者も子ども連れも、少なくとも私の周りには、途中で諦めて帰る人はいなかった。ある女性は「生まれてからずっと君主だったエリザベス女王に、感謝の気持ちを直接伝えたい」と弔問に来た理由を話してくれた。

そんな時、ちょっとした事件が起きた。女王の棺が置かれたウェストミンスター宮殿に近いテムズ川沿いで、男2人組が行列に横入りしたのだ。暗闇の中の出来事だった。すると周囲の人が「こいつは一緒に並んでいなかった」と怒り出し、男2人はすぐに警備員につまみ出されていた。長時間、共に過ごすうちに並ぶ人々の間に不思議な連帯感が生まれていた。

「弔問を終えると、ビッグ・ベンの時計の針は午前0時半を指していた」

並び始めて14時間。私がエリザベス女王の棺を目にした頃には午前0時を過ぎていた。一緒に並んでいた仲間たちは、常に冗談を言って元気に過ごしていたが、宮殿内に入ると緊張した面持ちで、棺を前にすると静かに涙を流しながら追悼していた。エリザベス女王が多くの国民に愛され、尊敬されていたことを改めて強く実感した瞬間だった。

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■エリザベス女王 埋葬の地で

■エリザベス女王 埋葬の地で

「ウィンザー城につながる全長約4キロの一本道「ロングウォーク」」

9月19日。エリザベス女王の国葬には天皇皇后両陛下をはじめ、世界各国の代表らが出席した。

私はエリザベス女王が埋葬されるロンドン近郊のウィンザー城周辺にいた。エリザベス女王の棺は、ウィンザー城につながる長い一本道「ロングウォーク」を通過することになっていた。女王が毎週末を過ごしていたこの地で、沿道には最後の姿を一目見ようと、またしても多くの人が集まっていた。あまりにも人が多く、途中から「ロングウォーク」周辺への立ち入りが規制されるほどだった。ウィンザー城にもビールを卸しているという地元の醸造所の所長が語った「私たちのコミュニティにとって女王は隣人だった」という言葉が印象に残っている。

エリザベス女王の棺が「ロングウォーク」を通過する際、集まった人たちは拍手をして迎えたり、イギリス国歌「ゴット・セーブ・ザ・クイーン」(キングではなく、クイーンだった)を歌ったりしていた。そしてウィンザー城に入っていく棺が見えなくなるまで見守り続けていた。

「ウィンザー城に向かう女王の棺。国民が女王との最後の別れを偲んだ」

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■チャールズ国王の誕生 エリザベス女王のレガシー

■チャールズ国王の誕生 エリザベス女王のレガシー

「国王チャールズ3世。公務後に国民と交流する様子」

チャールズ国王の即位から2年、切手や硬貨、紙幣のデザインがチャールズ国王の肖像に変わった。チャールズ国王はがんを公表し、公務の量を制限しているが、今年6月の天皇皇后両陛下の公式御訪問の際には、元気な姿を見せた。

エリザベス女王の崩御は、多くのイギリス国民が人生で初めて君主の交代を経験したことを意味する。「何が起きるのだろうか」。当初、日常生活が大きく変わるのではないか、という不安の声も聞かれたが、実際には大きな変化はなく、政治的な混乱もなかった。

エリザベス女王が晩年、議会開会式のスピーチをチャールズ皇太子(当時)に任せるなど、公務の一部を引き継いでいたことも要因かもしれない。

ビクトリア女王を抜き、イギリス史上最長の在位70年を誇るエリザベス女王。女王の功績を称えるため、生誕100年に当たる2026年には、ロンドンのリージェンツ・パークに記念庭園が開園する予定だ。新たな国民の憩いの場として国民に親しまれ、バッキンガム宮殿前にある「ビクトリア女王記念碑」のように、「女王エリザベス2世」の名前が何世紀にも渡って伝えられる象徴となることだろう。

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