「熱海」と聞いて、首都圏に暮らす人が真っ先に連想する温泉地は静岡県熱海市だろう。どっこい、東北地方の福島県郡山市にも「磐梯熱海温泉」があるではないか。
「郷土史に詳しい方を」と熱海行政センター(市役所熱海支所)に頼み、紹介されたのは大内文一さん(69)。地元で遺跡周辺の環境美化運動などに取り組む「熱海史談会」の会長を務める。英語講師として東京都内の大手予備校に勤め、退職後に熱海町に戻って古文書や漢文解きを独学。古老の口述文である「里老伝」など資料を読み込み、約6年をかけて「熱海」の由来の推論に至ったという。
「まずは八幡太郎義家から始めましょう」。大内さんが切り出した。八幡太郎義家とは、源義家だ。父・頼義と手を携え、朝廷に逆らった奥州の豪族を討った「前九年の役」(1051~1062年)などで活躍し、後の武家政治の礎を築いた名将だ。
義家らの軍勢は遠征の途上で約2週間、今の郡山に駐留する。湿地帯から湯気が上がっていた。触ると温かい。ただ、ぬるかった。農民らが手ぬぐいを浸して体を拭いている。「ぬる湯の海のよう」と義家が思った一帯を、彼らは「あづみ」と呼ぶ。地元なまり言葉か義家は「温海(あつみ)」と理解した。ちなみに「あつみ」温泉は山形県鶴岡市にもある。
時は下って1189年ごろ。奥州・平泉の藤原氏征伐に向かった源頼朝の軍勢も、義家以来の言い伝えがあった温海で休息する。兵士らは湿地に穴を掘り、半身をつかって行軍の疲れを癒やした。この時、近隣に偵察に出ていた部隊が別の沸き湯を見つける。だが人が入るには熱過ぎた。
1700年代に入ると、一帯は二本松藩の領内にあった。本宮の代官、吉田弥右衛門が領民らに人気だという温海の確認に訪れる。彼は熱い方の湯にも手を触れ、こう言ったという。「温海でなく熱海だな」。大内さんは、これが「熱海」と呼ばれ始めた由来ではないかと見ている。
磐梯熱海には2種の湯がある。ともにアルカリ性単純温泉だが、一つは民間が管理する温度30度ほどの冷泉で「霊泉」「ぬる湯」とも。もう一つは約3キロ離れた場所などに湧く市営源泉で、こちらは50度を超えるのだ。
JR磐梯熱海駅の近くにひっそりと「熱海温泉碑」が建つ。江戸時代に刻まれた石碑の2代目。風化が目立つが、大内さんが拓本を取って現代文に訳していた。
<湯舎と湯槽を作り、温め方を教えると、遠方からも多くの人々が湯治に集まった>(概略)。
入浴設備を整え、湯温の調節方法を説いたのが吉田であり、大内さんは「今でこそ『郡山の奥座敷』と称される磐梯熱海温泉を約300年も前に興した吉田の功績をたたえたい」と評価する。
「伊豆」もある
熱海町には「上伊豆島」「下伊豆島」の地名もある。平泉討伐の後、鎌倉幕府の御家人らは源頼朝から恩賞に東北の領地を与えられた。現在の静岡県伊東市に館があった工藤祐経(すけつね)もその一人。しかし、彼と嫡男は伊東を離れず、代わりに次男の祐長がおもむいて伊東姓を名乗った。
祐長がこの地に来た経緯については別の史料もある。とはいえ、大内さんによると、「島」は当時は集落の意味。伊豆が「上」「下」に別れたのは大正時代ごろに集落の中央に道が通って以降という。
諸説はあるけれど、熱海の由来にたどり着いたところで、一風呂浴びましょうか。【根本太一】
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