「公害の原点」といわれる水俣病は1956年に公式確認されてから1日で68年となり、熊本県水俣市で犠牲者慰霊式が営まれた。被害者救済をめぐる訴訟がなお続き全面解決が見通せない中、式典には患者・遺族をはじめ、環境省や原因企業チッソ(東京)の関係者など670人が参列し、犠牲者に祈りをささげた。
慰霊式で患者・遺族代表として「祈りの言葉」を述べた川畑俊夫さん(73)=熊本県水俣市=は「最初に見た水俣病患者」として一人の少女を挙げた。“水俣病第1号患者”とされ、8歳で亡くなった親戚の溝口トヨ子さんのことだ。
トヨ子さんが発症したのは1953年12月で、水俣病認定患者の中で最も古いとされる。当時5歳で、日がたつにつれて体の自由を失い、激しいけいれん発作のため手足を畳ですりむき出血した。
親同士がいとこだった川畑さんは、自身が5歳前後の頃、近所に住む2歳年上のトヨ子さん宅を度々訪れた。やせこけたトヨ子さんはよだれを垂らし、布団に寝かされていた。回復を願ったトヨ子さんの両親は近くの海で取れた魚や貝を食べさせた。水銀が含まれているとは知らぬまま、栄養をつけさせたい一心だった。
川畑さんはもちろん、本人も家族も何の病気で苦しんでいるのか分からないまま、56年3月、トヨ子さんは短い生涯を閉じた。それは水俣病が同年5月に公式確認される2カ月前のこと。後に両親が原告となった水俣病第1次訴訟で、患者側が勝訴した73年の熊本地裁判決は「言語に絶する苦しみのうちに亡くなった」と述べた。
公式確認を経て水俣病の存在は社会に知られるようになった。だが当初、水俣病は「奇病」と呼ばれ、患者たちが孤立しただけでなく、水俣の町も差別や偏見に見舞われた。川畑さんは、中学生の頃、列車に乗り合わせた見知らぬ同世代の子どもたちが水俣に近づくと「息を止めろ」「(水俣病が)うつるぞ」などと声を上げたのを覚えている。
周囲の目を気にしたのは川畑さんの家族も例外ではない。母は激しい頭痛やこむら返りに襲われ、後に水俣病認定を受けたが、父や川畑さんは反対した。川畑さんの女きょうだい3人が「嫁に行くまでは」というのが理由だった。
こうした発生当初の水俣の様子を知る住民も徐々に減っている。地元で簡易郵便局長を務める川畑さんは患者運動に関わることはなかった。それでも、水俣市民がどれだけ水俣病に翻弄(ほんろう)されたかを伝えたい、と患者・遺族代表を引き受けた。
水俣病は原因企業チッソ水俣工場からの有毒な水銀排出が直接の原因だ。ただ、川畑さんは背景に、住民の生命を軽んじてでもチッソの企業活動を含めて高度経済成長を推し進めた当時の国策があると考えている。
今なお詳しい被害実態は不明のままで、救済から取り残された人たちを巡る裁判も続いている。国は責任を持って解決を急ぐべきではないか。「国と熊本県、チッソは患者の現状に真摯(しんし)に向き合ってほしい」。「祈りの言葉」の最後に川畑さんはそう訴えた。【西貴晴】
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