佐藤幸徳中将の顕彰碑に花を供える関場慶博さん=山形県庄内町で2024年10月19日、長南里香撮影

 太平洋戦争中に旧日本軍が英軍の拠点攻略を目指して失敗し、多数の死者を出したインパール作戦から80年。独断で作戦から師団を撤退させた佐藤幸徳中将(1893~1959年)が眠る山形県庄内町の寺に、父の思いを継ぐ1人の男性が墓参した。「命の恩人に、やっとありがとうと言えた」と手を合わせた。

 同町の乗慶寺(じょうけいじ)を10月19日に訪れたのは、佐藤中将が率いた第31師団に医師として従軍した故関場一男さんの長男で、小児科医の慶博さん(74)=青森県藤崎町=だ。

 「生き延びることができたのは佐藤中将のおかげ」。ほとんど戦争の話をしなかった父一男さんは晩年になってぽつりと口にした。

 父が家族に話した内容によると、撤退を命じられた当時、兵士たちは一様に驚いた様子で「これで命が助かるかもしれない」と話していたという。死者が相次いだ撤退ルートの「白骨街道」を進む中、現地の農民が食料をくれたり、かくまってくれたりした。

 父は英軍の捕虜となり、1946年に帰国。「ビルマ(現ミャンマー)に行って墓参りをしたい」と周囲に語っていたが、果たせないまま88年に亡くなった。

 慶博さんは2015年、ミャンマーの日本人墓地を訪ねた。また、戦争で犠牲となる弱い立場の子供たちの役に立ちたいと、小児病院でのポリオワクチン接種などの医療協力を個人的に続けている。

 今年3月に発行された青森県内の医療情報誌に医療協力の経緯を投稿したところ、それを読んだ大学時代の先輩で山形県鶴岡市の医師から佐藤家の菩提(ぼだい)寺について知らされた。

 この日の墓参後、慶博さんは「父が生きていたことで、私の命も今ここにあり、感謝しかない。元気でいる限り父との約束として、ミャンマーでの医療支援を続けていきたい」と話した。【長南里香】

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