イスラエルによる攻撃が続く中、ガザ地区で暮らす息子たちの安否を気遣う藤永香織さん=福岡市早良区で2024年9月28日、野田武撮影
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 明日も息子たちに電話がつながるだろうか――。福岡市早良区の藤永香織さん(53)にはパレスチナ自治区ガザ地区で暮らす息子たちがいる。2023年10月7日にイスラエルとイスラム組織ハマスの戦闘が始まって以降、毎日、電話をかけて無事を確認する。ガザ保健当局によると、ガザ側の死者は4万人を超えた。停戦はいまだ実現しない。不安を抱えながら過ごす日々が1年を超えようとしている。

 藤永さんが初めてイスラエルを訪れたのは大学生だった1994年のこと。ナチス・ドイツによる迫害にさらされたユダヤ人の少女が潜伏生活の日々をつづった「アンネの日記」を子どもの頃に読み、その隠れ家や強制収容所跡、ユダヤ人が第二次世界大戦後に建国したイスラエルをいつか訪れたいと思っていた。

 念願の旅先で「出合ってしまった」のがパレスチナ問題だった。パレスチナ自治区ヨルダン川西岸地区を訪れ、バスの窓越しにパレスチナ人のおじいさん2人が店番をしながら会話している光景を見た瞬間、「新聞や本で文字として見ていた『パレスチナ問題』が一気に立体的なものになった」。

 95年にヨルダン川西岸地区を再訪。97~99年にはガザ地区南部のハンユニスで、ボランティアで障害児教育を支援した。その後、「ガザの人たちが働ける場を作りたい」と思い、ガザ市でカフェを開業。準備に携わってくれたパレスチナ人男性と01年に結婚し、男性と前妻との間にできた子ども7人の母親になった。

藤永香織さんの元に、息子たちから送られてきたガザ地区南部・ハンユニスの郊外の写真。イスラエルによる攻撃で建物が破壊されている=藤永さん提供
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 子どもたちの学校の宿題を手伝ったり、一緒に海岸に出かけたり……。だが、家族が一緒に過ごせた期間は合計で1年にも満たなかった。藤永さんは観光ビザでガザ地区と日本を行き来していたが、パレスチナを巡る情勢は悪化し、外国人の出入りが難しくなった。「状況が落ち着くまで少し待とう」と日本にとどまることにしたが、その後も混乱は続き、03年ごろを最後にガザには戻れていない。

 夫はカフェの経営を続けてくれたが、イスラエル軍の戦車に店が踏み潰されたこともあり、営業は中断と再開を繰り返した。この20年の間に、7人いた子どものうち、娘2人は自殺とがんで亡くなり、息子3人は音信不通になった。夫も心を壊し、連絡がつくのは20代の四男と五男だけになった。

 藤永さんも昨年、子宮体がんが見つかった。闘病中だった昨年10月、ハマスによる越境攻撃をきっかけにイスラエルはガザ地区に激しい攻撃を始めた。横になりながら息子たちに電話をかけ続け、ようやく連絡が取れたのは半月後。「生きていた!」と安心した。息子たちは「ママは大丈夫?」と、藤永さんの体調を気遣ってくれた。

 息子たちは安全な場所を求めて避難を繰り返しているが、電話に出ないと心配になる。電話越しにドローンの音が聞こえる日もあれば、子どもたちの笑い声が聞こえる日もある。「また、あしたね」と言って電話を切った後、「これが最後ではありませんように」と心の中で願っている。

 停戦交渉はまとまらず、イスラエルによる攻撃は続く。「ガザの人間みんなが殺されてしまうまで争いは終わらないのではないか」とさえ感じることがある。息子たちは日々、死の恐怖にさらされ、食料と水を確保するだけで一日が終わる。「彼らが置かれている状況はどう考えても理不尽です」

 息子たちに状況を尋ねても、最近は「いつも通りだよ、いつも通り空爆されている」と言葉少なだ。「今、何が一番の希望?」と聞くと、「ママが元気でいて、僕たちが元気でいること。『もし』戦争が終わったら会いたいな」という答えが返ってきた。出口の見えない状況に疲弊しながらも、「生きていたい」という気持ちは失っていないように感じた。

 「もう誰にも死んでほしくない。一刻も早い停戦のために国際社会の力が必要です」。藤永さんはそう訴える。今日もあしたも息子たちに電話をかけ続ける。【日向米華】

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