「黄門浪漫珈琲」のパッケージデザイン案=水戸市で2024年7月1日午後3時55分、松下英志撮影

 「水戸黄門はコーヒーを飲んでいた!?」。日本コーヒー文化学会と同茨城支部は9月29日、水戸市民会館3階大会議室で第30回記念「水戸でコーヒーを楽しむ会」を開き「黄門浪漫珈琲(コーヒー)」をお披露目する。その誕生までを同学会副会長の鈴木誉志男サザコーヒー会長が解説するほか、会員らが試飲するコーヒーブレークも。鈴木さんは「調査すればするほど黄門さんがコーヒーを飲んでいたと確信するようになった」と話している。【松下英志】

 水戸藩第2代藩主の徳川光圀(別名・水戸黄門)は中国・明の儒学者、朱(しゅ)舜水(しゅんすい)を招いて学問の師と仰ぎ、常陸太田市には朱の墓もある。朱は黄門にラーメンを紹介したとされ、黄門は日本で最初にラーメンを食べた人とも言われる。

 鈴木さんによると、黄門が生きた17世紀はオランダ東インド会社が世界のコーヒー取引で大きな役割を占めるとともにコーヒーカップとして伊万里焼を欧州に輸出していた。長崎・出島のオランダ商館長は日本人にコーヒーを飲むよう勧め、オランダ語の日本人通訳の給与はコーヒーで支払われ、その通訳は江戸などから来る人に長崎土産としてコーヒーを売っていたという。

「黄門浪漫珈琲」について話し合う日本コーヒー文化学会茨城支部の会合。右から2人目の立ち上がって説明しているのは鈴木誉志男さん=水戸市で2024年7月1日午後3時10分、松下英志撮影

 朱はその長崎を7回訪問し、出島の居留地には5年間滞在。中国で台頭した清朝に抵抗する明朝亡命政府を支援するため、貿易で軍資金を稼ぎ出す商社マンの一面もあったとされる。鈴木さんは「オランダ人が貿易で利益を上げているコーヒーを、(貿易も担うなど)好奇心の強い朱が飲まないはずはない」と考察する。

 さらに「黄門さんは牛乳を(「大日本史」編さん所の)彰考館の館員にふるまい、チーズや牛肉も食した好奇心の強い食通だったことが朱の文書に記されてる。コーヒーを飲んでいなかったと証明することはできない」と強調する。

 黄門浪漫珈琲は、当時のコーヒー集積港である(現イエメンの)モカと、オランダの植民地だったインドネシアの豆を使い、ローストはオランダ人好みの「少し苦味(にがみ)」にしたという。「『コーヒーはおいしいのう、助さん、格さん』と多分言われたと思う」と鈴木さんは思いをはせる。

 「楽しむ会」は午後1時(受け付け開始は40分前)から同3時半、参加費1000円、定員300人。事前予約が必要で、最寄りのUCC、キー、サザ、服部、三本、珈琲問屋の各コーヒーチェーン店か、おひさま珈琲、カピアンコーヒー、サワコーヒー、マイルストーン、とむとむ、器ら、粉雪亭の各店に問い合わせを。

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