約80年前の戦時中に詠まれた短歌が歌声に乗せて披露された。戦争で失明した元兵士「戦盲(せんもう)」の短歌に曲を付けた「戦盲歌」。戦争の記憶が薄れゆく中、戦盲に歌の指導をした歌人のひ孫夫婦が「戦争を知らない世代にもその歴史的な価値を知ってほしい」との思いから企画した。
7月14日、東京都千代田区の「しょうけい館」(戦傷病者史料館)で、ソプラノ歌手の神戸薫子さん(37)が戦盲歌3曲を情感豊かに歌い上げた。詰めかけた約50人からは大きな拍手が送られた。
この日のために、夫で歌人の佐佐木頼綱さん(44)と準備を進めてきた。これまで神戸さんのコンサートで曲目の一つとして歌うことはあったものの戦盲歌だけを披露したのは初めてだった。
佐佐木さんの曽祖父、信綱さん(1963年に91歳で死去)も歌人だった。戦時中、同じく歌人の伊藤嘉夫さん(92年に88歳で死去)と戦傷病者が入院する病院を訪ね、短歌の指導に当たった。
指導した回数は100回以上で、戦盲が詠んだ短歌を収めた「大東亜戦争失明軍人歌集 戦盲」(43年発行)など複数の合同歌集を世に出した。
その歌集を作曲家の越谷達之助さん(82年に73歳で死去)が戦時中に書店で見つけて楽譜を書き、76年に自費出版したのが「歌曲集 戦盲歌」だ。越谷さんは歌曲集の最初のページに「孤独の闇に呻吟(しんぎん)する若者達の声を、当時の私は激しい感動を以(もっ)て作曲したのを今でも忘れることができない」などと思いをつづっている。
翌77年、戦盲や遺族を招いたコンサートが都内で開かれた。佐佐木さんによると、越谷さんは当時「現在の平和がこうした人たちの犠牲の上に成り立っていることを世の中の人、特に戦争を知らない若い人たちに訴えたい」と話していたという。
戦盲を含む戦傷病者手帳交付者数は80年度に最も多い約15万人だった。その後、戦傷病者が亡くなるにつれて減っていき、2022年度末時点で2158人となっている。
戦盲の短歌の中には戦意高揚の勇ましい言葉をつづったものも少なくない。
戦時中の視覚障害者の状況に詳しい京都府立盲学校元教諭の岸博実さんは「視覚障害者も頑張っているんだから国のために力を尽くさないといけないという雰囲気が戦時中つくられていた。家族への思いを率直に詠んだ歌もあるが、再起奉公を詠まざるを得なかった視覚障害者もいただろう。戦争が障害者を大量に生み出すという視点を失ってはならない」と強調する。
佐佐木さんは曽祖父の歌人や国文学者としての功績を研究する中で歌集の存在を知った。古書店などで歌集を探し出し、越谷さんが曲をつけていたこともわかった。そして、多くの人に戦盲歌を知ってほしいと考えるようになった。
歌曲集の中にあった全7曲のうち、佐佐木さんと神戸さんが選んで披露したのは「母」「入院中折にふれて」「妻」の3曲だった。
母よりの文の一言一言を拝む思いにわが聞きており
包み解き冬着の白衣まさぐればほのぼのと母が恋しかりけり
ふと思う我が名書けずになりてより幾月ならん文字のかきたし
とこやみの夜半(よわ)にめざめて我が名など指もて書けり盲(めし)いし吾(われ)は
見えぬ我に涼しき音の風鈴を妻は買い来ていつか吊(つる)しぬ
母や妻への思いや失明して字が書けなくなったことについて詠んだこの5首から作った3曲を歌った。
神戸さんが歌を披露する前、佐佐木さんは来館者に戦盲の短歌の特徴について解説した。難しい技巧は使わないものの胸に率直に届き、聞こえる音や手でふれた感触を詠んでいる。
佐佐木さんは「触って世界があることを知る。命に直結する言葉だと感じる」と言う。戦盲が短歌を創作したことについては「悲しみを受け入れる過程であり、自らの現状を知った時の悲しさを言葉にしたのではないか。魂の叫び、祈りのように思う」と話す。
神戸さんの歌を聴き終えた来館者を前に、佐佐木さんは最後にこう呼びかけた。「戦争を知らない世代がどうやって引き継ぐか。どうやればいいのかずっとわからずにいました。こうやって作品や思いを引き継げば、未来を築くために貴重なものになるのではないでしょうか」
神戸さんが歌う戦盲歌は動画配信サイト(https://youtu.be/inbOcFXCync?si=YBHfM3pctEn1qqZQ)で視聴することができる。【谷本仁美】
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