碑が立つ場所は、そこであるべき理由があった。自らの被爆体験から原爆を告発し続けた作家、大田洋子(1903~63年)の文学碑がサッカースタジアム「ピースウイング広島」(広島市中区)の建設に伴い近くに移設され、文学愛好者や被爆者、高校生らが集まって2日に碑前祭を開いた。人々が碑に託した思いとは――。
「少女たちは 天に焼かれる 天に焼かれる と歌のやうに 叫びながら 歩いて行った」
巨石に白く刻まれているのは代表作「屍(しかばね)の街」の一節。この日、スタジアム西側を流れる本川(旧太田川)の土手下に移設された文学碑の前に約50人が集まった。
碑前祭は78年に建立された時以来で、71年に刊行された大田の評伝「草饐(くさずえ)」を書いた江刺昭子さん(82)があいさつし「大田さんは広島の原爆被害と核廃絶を訴える大きな文学を書き続けた。若い人たちに彼女の文学と生き方に触れていただき、長く伝えてほしい」と語った。大田が卒業した学校の後身となる進徳女子高の生徒2人が、作品の一部を朗読した。
原爆投下時、大田は東京から広島市内の妹宅に疎開していた。「これを見た作家の責任」として被爆直後から「屍の街」の執筆にかかった。48年に中央公論社から出た初版は悲惨な場面などが削除され、別の出版社から完全版が出たのは50年。その後も原爆を題材に「人間襤褸(らんる)」「夕凪(ゆうなぎ)の街と人と」などの作品を執筆した。
大田の没後15年に文学碑が建てられたのは、広島市中央公園の一角。かつては近くに「原爆スラム」と呼ばれた住宅がひしめき、そこは「夕凪の街と人と」の舞台でもあった。建立を発案したのは詩人の栗原貞子(1913~2005年)で、詩画人の四國五郎(1924~2014年)は15ある石を原爆ドームに向かって配置するなど設計を担った。四國はふさわしい自然石を探しに自ら山奥に出向いたという。
園内で一度移設された文学碑は、20年に中央公園へのサッカースタジアム建設が決まると、再び移設を迫られた。「この場所に建てられた意味がある」。市民団体「広島文学資料保全の会」は市側に申し入れ、碑があった場所に近い川土手の下に用地が確保された。
保全の会代表の土屋時子さん(76)は真新しいサッカースタジアムを見上げ「この地で大田洋子の文学は生まれた。文学碑がここにある意味を知ることで、大きく変貌している広島の物語を発信できる」と話した。【宇城昇】
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