浜田茂雄さんが残したはがきを手にする浜田博文さん(右)と中田重顕さん=三重県熊野市須野町で2024年3月7日午前11時55分、下村恵美撮影

 三重県熊野市から出征し、太平洋戦争の激戦地、フィリピン・レイテ島で戦死した浜田茂雄さん(享年25)が戦地から送った6通のはがきを、おいの浜田博文さん(71)=熊野市新鹿町=が大切に保管している。身近にいた馬を怖がり、「おじくそ(臆病者)」と呼ばれていたという茂雄さん。家族に「売れたら生活の足しになる」と言って20本のミカンの木を植え、出征した。祖母から、優しかった伯父の話を聞きながら食べたミカンはおいしかったが、思い出の木は浜田さんが中学のころに切られてしまった。今は写真も見当たらない伯父が生きた証しは、6通のはがきだけになってしまった。

 茂雄さんが暮らした須野町は熊野市の東部に位置する。市街地から車で30分ほどかかり、5月1日現在で3世帯3人が暮らす小さな町だ。茂雄さんは浜田家の長男だった。浜田さんによると、11人きょうだいだったという。茂雄さんは当時、年が離れていた弟や妹たちも残して1942(昭和17)年1月に戦地に向かった。

 茂雄さんから届き、今も残る6通のはがきは茂雄さんの父・兵蔵さんが茂雄さんの弟・敬次さん(いずれも故人)に託したものだ。浜田さんにとっては祖父から父に受け継がれた伯父の形見の存在は、2023年夏、浜田さんの親戚により熊野市在住の作家・中田重顕さん(81)に伝えられた。熊野市近隣から出征した元兵士や兵士の家族を取材している中田さんは、茂雄さんからのはがきを目にして、貴重な資料だと意義づける。

 中田さんによると、はがきは妹や弟、父に宛てたものだという。6通のうち、投函(とうかん)された年月日すべてを特定できるものは限られるが、並べてみると、茂雄さんの変化が感じ取れる。

 妹の富子さんに宛てた「3月20日」と記されたはがきには梅やウグイスの絵が描かれた。「昭和18(1943)年11月20日」と記されたはがきなど3通には女性の絵と共に家族を心配する言葉と近況がつづられていた。

浜田茂雄さんが戦地から送ったはがき=三重県熊野市で2024年3月7日午後1時43分、下村恵美撮影

 穏やかな雰囲気の4通とは別に、残りの2通は印象が変わる。「昭和19(1944)年1月17日」のはがきには銃剣を持って海を望む兵士が描かれた。「6月18日」のはがきには座って手紙を読んでいる兵士を見守るように女性の顔が描かれ、「母の手紙が前線の将兵の魂をみがいている」と書き添えられ、中田さんは「母親のことを思い出していたのでは」と想像した。

 はがきの差し出し印には「比島派遣垣第六五五一部隊」とある。防衛省防衛研究所によると、「第一六師団司令部」のことで、茂雄さんは歩兵や工兵などの部隊を統括する部署に所属していたことになる。同研究所の部隊別の「略歴史料」によると、第一六師団司令部は、44年4月にルソン島からレイテ島に転進した。

 レイテ島には44年10月20日、米軍が上陸し、数日後には多くの日本軍の兵士が戦死した。ただ、茂雄さんの墓石には「昭和二十年七月十三日比島レイテ島方面にオイテ戦死ス」と刻まれ、浜田家に残る茂雄さんの葬儀参列者名簿には「昭和弐拾年七月(中略)比島カンギボット山」とあり、終戦した8月15日の1カ月前まで生きていたことがわかる。

 略歴史料からも浮かび上がることがある。米軍がレイテ島に上陸した44年10月20日は「兵団は戦斗司令部をダガミ山麓(さんろく)に推進せしめ反撃戦斗に移行す(以下略)」と記され、45年は3月中旬に「残存者は付近山麓に入り(中略)、カンギボット山周辺地区へ転進を開始す」、6月には「カンギボット山周辺に対する米軍の攻撃熾烈(しれつ)となる」と記載されている。

 茂雄さんが所属した司令部は生死の境をさまうように島を転々としながら、最後に力尽きた。中田さんは「飢餓にも耐えたと思う。極限の状況で終戦の直前まで生きながら、カンギボットで戦死したのでは」と推察した。

レイテ島で戦死したと刻まれた墓を前にする浜田博文さん=三重県熊野市須野町で2024年3月7日午前10時28分、下村恵美撮影

 浜田さんは戦地での茂雄さんに思いをはせ、「あと1カ月生き延びることができたら」と残念がった。ただ、はがきの内容を県内外で暮らす叔父や叔母に伝えると「戦地からきょうだいのことを心配してくれた兄のことを知ることができた」と喜んだという。

 ミカンを食べながら伯父のことを話す祖母の姿を思い出した浜田さんは「二度と戦争が起きないようにしてほしい」と願う。その思いから「多くの人に戦地からの手紙の存在を知ってほしい」と中田さんに伯父のはがきを託した。

 中田さんは6通のはがきを7月末、市内で平和を願う企画展で展示する予定だ。浜田さんは「伯父の遺影もあったはずなので、企画展までには捜したい」と話していた。【下村恵美】

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