映画「グラン・ブルー」のモデルで、人類史上初めて素潜りで水深100メートルを超える記録をつくったジャック・マイヨール(2001年に74歳で死去)は、晩年を千葉県館山市の海辺で主に過ごした。彼が提唱した「ホモ・デルフィナス(イルカの心をもった人間)」とは、どのような理念だったのか。彼の日本での暮らしを支えた同市のダイバー、成田均さん(77)に聞いた。【岩崎信道】
――出会った時のことを教えてください。
◆1969年、イタリアであったブルーオリンピック(水中競技世界選手権大会)の会場でのこと。私は日本選手団の一員だったのですが、そこにマイヨールが訪ねて来ました。彼はもっぱら私の師匠で、世界水中連盟の日本代表だった大崎映晋さんと話をしていました。日本で世界記録に挑戦したいのでサポートを頼みたい。そんな話だったそうです。
――翌70年、静岡・伊豆で水深76メートルの世界記録を樹立しました。
◆サポートスタッフだった私の目の前で、彼は神のような存在になりました。だめ元で手紙を書いて渡し、私の故郷・秋田の海へ来ないかと誘ったのです。返事は「グッドアイデア。いつ行く?」。その年の夏、11日間の旅をしました。以来、家族同様の付き合いが続きました。
――どんな人だったのですか?
◆子どもがそのまま大人になったような人でした。彼の自伝を基に作られた映画「グラン・ブルー」に同名の主人公が登場しますが、実際のマイヨールとは別人ですね。むしろ、ライバルで親友として描かれているエンゾに近い気がします。
そんな性格に、私も振り回されました。亡くなる前の9年間、彼はほとんど館山市内の古民家で過ごしていました。私が借金をして購入した物件で、私のダイビングスクールの宿泊施設にするつもりだったのですが、マイヨールが住みついたため「神様と相宿は恐れ多い」と、誰も泊まろうとしませんでした。
――最期はイタリア・エルバ島で自殺してしまいます。なぜだったのでしょう。
◆私なりに考え続けているのですが、答えは出ません。ただ、晩年のマイヨールはイルカと泳ぐ自分の写真を見ては、肉体の衰えを嘆いていました。栄光が過去のものになりつつあることを感じていたのでしょう。
――地球環境と世界平和を守るためホモ・デルフィナスというメッセージを残しました。
◆私は英語も仏語もほとんどだめなのですが、マイヨールはよく「私たちは2%の言語と48%のボディーランゲージ、残り50%はテレパシーでコミュニケーションをとっている」と言っていました。世界では通訳を介して互いの言葉を理解しながら、国と国はすれ違い、争いが絶えません。もしイルカたちのインスピレーションが人間にあれば、地球はかつてのようなパラダイスに戻るだろう、と。
世界各地で武力紛争が絶えず、地球温暖化による異常気象が起きている今、改めてホモ・デルフィナスの理念をかみしめています。いつの日か、マイヨールが残したメッセージを伝える記念館を建てたいと思っています。
なりた・ひとし
秋田工高卒業後、ダイビングの道へ。1985年、館山市に「シークロップダイビングスクール」を設立。マイヨール記念館の開館準備を進める合同会社「ホモデルフィナス」代表社員。
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