NHK連続テレビ小説「虎に翼」の主人公のモデル、三淵嘉子は日本初の女性弁護士のひとりである。戦後、女性に門戸の開かれた裁判官になり、裁判所長へと上り詰めた。「定年退官まで30年間を勤めた私の一生は、女性法曹の40年の歴史そのもの」。没後にまとめられた追想文集「追想のひと 三淵嘉子」に掲載された本人の文章には、そう書かれている。記者の大伯母にあたる嘉子について紹介する。【本橋由紀】
嘉子は台湾銀行に勤めていた父、武藤貞雄の赴任先、シンガポールで1914(大正3)年に生まれた。36年に1度巡ってくる非常に強い運勢を持つと言われる「五黄(ごおう)の寅(とら)年」。名前はシンガポールの漢字表記「新嘉坡」にちなむ。嘉子は貞雄が渡米した2年後に母と帰国。20年に帰国した貞雄と共に、一家は東京で暮らし始めた。
東京女高師付属高女(現お茶の水女子大付属高)を経て、32(昭和7)年4月に明治大学専門部女子部法科に入学した。男女差別が色濃かった当時としては進歩的な貞雄が、嘉子に「男と同じように政治でも、経済でも理解できるようになれ。それには何か専門の仕事をもつための勉強をしなさい」と背中を押したという。
当時の愛称はムッシュ。同級生によると「ちょっと男っぽいところ」があり、いつの間にかその愛称が付いたという。よく通る大きな声で、合唱団では第1ソプラノだった。
35年に女子部を卒業。翌年、改正弁護士法が施行され、男性に限られていた弁護士資格が女性にも認められた。嘉子は明治大法学部に編入学し、高等試験司法科試験(現在の司法試験)を目指した。そして38年、ほかの女性2人と共に難関を突破する。
この時の合格者総数242人。マスコミはこぞって報道した。多くの記者は「(動機は)か弱き女性の味方になろうとしたのだろう」と質問した。「困っている人間」のために力になりたかった嘉子はひどく当惑し、「はい」と言えなかったそうだ。「人間として全力を尽くすとき女性は男性に比べて何の差もない。あるのは個人差だけ」と、文集に書いている。ただ、「女性の地位や権利が惨めで、ほとんどの女性がそれを知らずに生きている恐ろしさ」には心を痛めていた。
母校で教壇に立ち、東京都内の弁護士事務所に所属した嘉子は、41年11月に武藤家で書生をしていた和田芳夫と28歳で結婚。和田のことを、「周囲をながめて最も好人物」と嘉子の次弟、武藤輝彦は記した。翌月には日本は真珠湾を攻撃し、第二次世界大戦に突入する。そんな時代で、弁護士業は開店休業状態に陥った。
43年に長男・芳武を出産したが、45年1月に芳夫は出征。残された嘉子は3月、芳武と弟の妻子4人で福島県坂下町(現会津坂下町)の農家に疎開した。「畳もないゴザの上、ノミとシラミの巣の中、お百姓さんのまねごとを覚える。幼い子を守る必死のタタカイを生来の旺盛なバイタリティーでとにかく耐えた」と、輝彦が振り返っている。(敬称略)
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三淵嘉子ゆかりの「三淵邸・甘柑荘」(神奈川県小田原市板橋)の定期公開が6月から1時間延長される。4月末から金曜日と日曜日の午前11時から午後2時まで公開しているが、午後3時までとなる。ドラマ人気もあり、これまで1日約100人が訪れている。
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