「1字違いです」と名刺を差し出すと、アハハと笑って「いや、どうも」。21日に86歳で亡くなった元福島県矢祭町長の根本良一さん。2002年5月、東京本社で「平成の大合併」を担当していた私は、町役場の町長室で根本さんと向かい合っていた。
「国にあらがい合併を拒んだ理由はなぜですか」。そう問うと、一変して険しい目つきで答えは返ってきた。「矢祭は県の最南端にあって、合併すると、より辺境の地に追い込まれる。末端の行政サービスが低下する」
「総務省の官僚がすっ飛んで来たが、追い返してやった」と胸を張り、「相思相愛の合併は否定しないが強制はダメだ」。地方自治と住民の幸せを追い求める。その信念に、国と同様に「上から目線」で取材していたかもしれない私の姿勢を厳しくただされた記憶が残る。
次に言葉を交わしたのは17年後。台風19号が東日本を襲った19年10月、久慈川が氾濫した茨城県北部一帯の被災地を取材していた折、たまたま出会った、というより見つけたというのが正確か。07年の町長選に出馬せず、、政界を引退した後に根本さんが経営に注力していた同県大子町の家具店が浸水して汚泥に埋まっていた。
金箔の仏壇や漆器が流され、被害規模は数億円だったという。根本さんは、災害廃棄物を運び出す幾台ものトラックを、ぼうぜんと見つめていた。それでも「自然災害であって、従業員に責任はない。雇用は必ず守り抜く」と誓っていた。
今回の訃報に接し、大子店への電話取材に応じた男性社員は「災害の数カ月後に営業を再開できた」と話した。矢祭町民や従業員らを「守る」との意志は変わらず貫かれていた。今さらだが、「過疎化と地方自治」に関する考えをもっと教えてほしかった。【根本太一】
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