首里城公園の守礼門や歓会門付近の地下に広がる第32軍司令部壕北側に、沖縄県政記者クラブのカメラが入った。一部を写真と動画で紹介する。
撮影したのは「第2坑道」と「第3坑道」「エンジニアリングトンネル」と呼ばれる3本の通路のうち約110メートル。
泥岩や砂岩を掘って作った坑道の壁面や天井には至る所に、つるはしで岩を砕いた79年前の跡が残る。坑木や鉄くぎが刺さったままの壁面も。
壕の中枢部分に至る「第1坑道」は落盤でふさがれていてたどり着けない。1945年5月末、米軍の激しい攻撃を受けた日本軍が首里を放棄し、南部に撤退する際、壕の主要部分と坑口を爆破した。(社会部・當銘悠、吉田伸)
今回カメラが入った第2、第3坑道の地図。地図の数字は写真の撮影場所【1】進入立坑から壕の中へ
城西小学校の敷地内にある進入立坑=4月25日、那覇市首里真和志町(代表撮影)【2】第3坑道から進入坑道への上り階段
第3坑道から進入坑道への上り階段=4月25日、那覇市・第32軍司令部壕(代表撮影) 進入坑道階段を第3坑道へ下りた付近から南向け。正面奥にエンジニアリングトンネル入り口が見える=4月25日(代表撮影) 第3坑道南側のエンジニアリングトンネル入り口右手にある空間=4月25日(代表撮影)【3】坑道の幅は2.5メートル
第3坑道の曲がり角から第2坑道の方向を見る。坑道の幅は約2.5メートル。付近には、司令官室があったとされる=4月25日(代表撮影)【4】1カ所に集められた瓶類
第3坑道南側のエンジニアリングトンネル入り口右手に並べられた沖縄戦当時のものとみられる瓶類=4月25日(代表撮影)【5】3本の坑木残る
エンジニアリングトンネルの中ほどから奥を見る。壁には沖縄戦当時のものとみられる坑木3本が残る。調査ができている範囲で、坑木が確認できるのはここだけ=4月25日(代表撮影) エンジニアリングトンネル入り口近くから南西向け=4月25日(代表撮影) エンジニアリングトンネルの中ほどから第3坑道向け=4月25日(代表撮影)【6】交差部にある空間
第2坑道と第3坑道の交差部東側にある空間=5月12日(代表撮影)【7】第2坑道と第3坑道との交差部付近
第2坑道と第3坑道との交差部付近から南向け=4月25日(代表撮影)【8】崩落した天井部分
東西方向に延びる第2坑道で崩落した天井部分。曲がり角付近は、横幅約1.3メートル、高さ約1.3メートルで狭い空間になっている=5月12日(代表撮影)【9】支保工がない区間
東西方向に延びる第2坑道で、支保工がない区間。横幅約2メートル、高さ約1.3メートル。クチャ層に掘られている。奥には崩落した迂回坑道の入り口がある=5月12日(代表撮影) 東西方向に延びる第2坑道で、支保工がない区間=5月12日(代表撮影)【10】迂回坑道入り口
第2坑道から続く迂回坑道入り口=5月12日(代表撮影)【11】土砂でふさがった迂回坑道
本来の坑道は東西方向に真っすぐ延びていたが、崩落で進めないため県が掘った迂回坑道。土砂でふさがれている=5月12日(代表撮影)2020年に撮影された第5坑口からの経路
【あわせて読みたい】
首里城が焼失して3年。あの時、沖縄タイムスで事件・事故を取材する社会部の警察担当記者(通称・サツ担)2人は沖縄のシンボル焼失を目の当たりにした。泣き崩れる住民、消火活動に奔走する消防隊員、原因究明に尽力する捜査員―。当時の取材メモを読み直し、写真とともにあの日を振り返る。
鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。