創立から120年余りが過ぎた去年、社名を「凸版印刷」から「TOPPAN」に変更し、同時にホールディングス化に踏み切った。いまや印刷にとどまらない広範囲な事業を手掛ける。その根源には、創立以来の開拓者スピリッツがあるという。情報コミュニケーション事業やエレクトロニクス事業などを担いグループの中核をなすTOPPANの齊藤昌典社長に業績を伸ばしてきた秘訣や女性活躍、来年に控えた大阪・関西万博への思い、見据える未来について話を聞いた。

カップ焼きそばの湯切りも 印刷技術を生かしたパッケージ開発

―――印刷というと雑誌やポスターをイメージしますが、それだけではないんですね?
 食品や日用品の包装資材、パッケージを多く手掛けています。例えば、ネスレ日本さまのキットカットの外装材は元々プラスティック素材でしたが、それを脱プラ、環境配慮の観点で紙化されました。また、カップ焼きそばの湯切りですね。微妙な穴が開いていますが、内容物が流れ出てしまわないような形状を私たちの印刷テクノロジーを応用して作っています。

―――去年10月には社名を変更されましたね。
 凸版印刷から去年10月に「印刷」を取って、同時に持ち株会社体制に移行してTOPPANホールディングスに変わりました。紙に執着をしていたら時代の流れの中で取り残されてしまうというようなこともありますし、印刷という文字が社名ついていますと一般的に紙を印刷するという事業のイメージが強いと思いますので、印刷という事業領域に特化しない社名に変更して取り組んでいこうということで決めました。

入社してから10年は仕事に没頭!激動の日々を過ごす

―――齊藤さんは子どもの頃、どんな少年だったのでしょうか?
 体を動かすことが好きで、ずっと軟式野球をやっていました。結構、勉強の時以外はグラウンドにいました。中学校でも野球部に入っていましたし、高校では当時、ラグビーが流行っていて、ラグビーをやってみようかなと。私が会社に入って2、3年の時に会社で「ラグビー部を作るぞ」という声が上がって初期メンバーとして取り組みました。初めは人数も集まらなかったので違う会社と一緒にやらせていただいて、土曜日に江戸川の河原で練習をやっていました。練習の後のお酒も楽しみでした。

―――当時の凸版印刷に入社しようと思われたのは?
 元々は「出版社や広告代理店がいいな」と思っていたんですが、企業研究をしたり先輩を訪問する中で、先輩たちが結構、生き生きと楽しく働いている話を聞いたりとか、「若い時から仕事を任せてくれる」というようなことを聞いたので、「この会社で働こう」と思って入社しました。入ってみると思った通り非常に皆さん楽しく働いていて。当時、本当に忙しかったので先輩から厳しく教えていただくこともありましたが、終わった後の懇親を含めて本当に仕事に没頭したといいますか、会社に入って10年ぐらいは激動の日々を過ごしました。

役員になるまで営業一筋 印刷の事業領域を広げるチャレンジを続ける

―――激動の最初の10年はどのような仕事だったのですか?
 役員になるまでずっと営業をやっておりました。初めてのお客さまを含め色々な方々とお会いできてお話ができるので、毎日ワクワクしているみたいな感じでした。やはり自分の仕事が、お客さまから感謝されるというか、「ありがとう」と言っていただけるとさらにモチベーションが上がってくるみたいなところがありましたので、本当に営業をやっていてよかったなと思っています。

―――齊藤さんが手掛けてきた新規事業はどのようなものがありますか?
 単純に印刷物だけを受注するのではなく、映像であったり、イベントであったり、制作物であったり、いろんな形で事業領域を広げて仕事の幅を広げることを営業時代に取り組みました。印刷需要がどんどん減っていく中で、その周辺の仕事が非常に貴重なものになると思っていました。印刷の仕事は色々な会社の色々な部署に入り込むことができるので、「この事業領域って、いま私どもにある機能を使うとできるんじゃないか」と考えてその事業領域にチャレンジしてお客さまから受託して…というような形で事業領域を広げていきました。

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