【酒類】三重県の酒蔵(製造休止)の酒造免許を受け継ぎ、上川管内上川町で2016年に誕生した上川大雪酒造。酒造りに新たなフロンティアを切り開いた塚原敏夫社長に全国の注目を集める「地方創生蔵」の運営と、道産酒の今後について聞きました。

ボートに明け暮れた大学時代 仕事のハードな証券会社に就職

――ご出身はどちらですか?
札幌出身です。小中高校は札幌の学校に通い、大学は小樽商大を卒業しました。大学の入学式でボート部の方に声をかけられ、そのまま“拉致”されて入部しました。

練習は毎朝5時に始まり、終わると学校へ。夕方から再び練習をした後、夜までウエイトトレーニングでバーベルを持ち上げて合宿所で寝る生活を4年間続けました。

――そうした学生生活で、就職をどう考えていましたか?
合宿所で寝ていたとき、公衆電話のピンク電話が鳴って「電話だぞ」って呼ばれて出ると、野村証券の担当者が「1回会いたい」と伝えてきました。

仕事がハードな会社だと聞くので、みんなに心配され、反対もされましたが、反対されればされるほど、やってみたくなって野村証券に就職しました。


三國シェフからの一声で退職 未知のレストラン経営に挑戦

――お酒のお仕事をされています。社会に出たころから、お酒はお好きでしたか?
当時、トム・クルーズ主演の映画「カクテル」が人気を集めており、将来はバーテンダーになろうと、夢見ながらサラリーマン生活をしていました。

26歳のとき、三重県の四日市に転勤になり、小さなバーに毎日、寄ってカクテルを飲んでいました。バーのマスターは年も近く、仲良くなりました。マスターの実家が造り酒屋でしたが、そのときは(酒造会社を作る)直接のきっかけにはなりませんでした。

その後、化粧品製造販売の「ハーバー研究所」に転職し、北海道出身の三國清三シェフに仕事で出会い、プライベートでも会うようになりました。三國シェフには全国各地から、たくさん相談が持ち込まれており、上川町からは「上川町にレストランを作るので三國シェフに手伝ってほしい」と頼まれました。

三國シェフが「どう思う」と聞くので「応援してあげてください」と申し上げたら、「では塚原君、会社を作ってください」と言ったのです。当時、二重就業は認められていなかったので会社を辞めました。

こんな形でサラリーマン人生を終えるとは思っていませんでした。上川町のプロジェクトですが、レストランは私と三國シェフで立ち上げました。


人生を変えたバーのマスターとの再会 プレゼントは酒造免許

――そのレストランにおじゃましたことがあります。お酒や料理はもちろん、一帯の風景もすばらしいですね。
レストラン経営を始めたところ、上川町は冬に何も観光がなくて、(経営は)大変だと思いました。

そんなとき、名古屋の百貨店さんから北海道物産展に出展しないかと声を掛けられました。(冬で)開店休業状態なので、スタッフを連れて、その北海道物産展に行きました。

せっかく名古屋に出掛けたので、20代のときに毎日、通っていた四日市のバーに数十年ぶりに連絡してみました。マスターが会いに来てくれ、会話の中で「実家の酒蔵も時代の流れでいろいろ大変だ」と話しました。

その場はそれで終わったのですが、その後すぐ、マスターは私たちの上川町のレストランにも来てくれました。これが大きな転機になりました。自然豊かな景色を見て「日本にこんな(すばらしい)ところはないよ。

こんなところで日本酒を造ることができたらすごいのに」とつぶやきました。「そうなんですよ。こういうところで冬にもっと事業ができたら良いですよね」と思わず口にしたら、マスターが「実家が三重県で経営していた酒蔵を北海道に引っ越しをして、日本酒造りをやればいいじゃないか」と持ち掛けられ、それではやってみようと決めたのです。


家族の生命保険をこっそり解約し、返戻金を投じて会社設立

――酒蔵を移せば、酒造りができるという単純な話ではないですよね。
そこでの製造が認められる酒造免許が大切です。三重県から札幌へ、1000キロ超えて酒蔵が引っ越ししてお酒を作った事例はなかったと思います。

手続きには大変、苦労しました。もう一つ苦労したのが資金です。私自身に全くお金がなく、そのころ高校生の娘が2人いました。

―――お金かかる時期ですね。
 家族に内緒で生命保険を解約しました。家族に言うと、絶対に反対されます。生命保険を解約し、返戻金を資本金に充てて作ったのが上川大雪酒造です。

――酒造りは大変でしたか?
製造責任者の杜氏さんをどう確保するのかと聞かれたとき、私は杜氏さんって誰だろうと感じるほど(素人)でした。お酒を作る米を仕入れるホクレンさんから、北海道出身の川端慎治さんという杜氏さんを紹介され、一緒にやり始めました。


「このまちにみんなが来てくれるお酒に」 地域限定販売が奏功

――初めてできた酒を口にされた瞬間、どんな思いがこみ上げましたか?
びっくりするぐらい実感がありませんでした。逆に、これからどれだけ買っていただけるのかで頭がいっぱいでした。地元の方や周りの方に本当にお世話になったという気持ちが強く、このまちにみんなが来てくれるようなお酒にしたいと思いました。

よそには出さず、ほしければ上川町へ来てくださいと(地域限定販売に)しようと決めたのです。ただ、当時、新たな酒蔵が全国的になくて、ニュースになり、全国から毎日のように「ぜひ、取り扱いたい」と取引の相談がありました。

ですが、全部お断りしました。ほしければ、ぜひ、上川にどうぞ来てくださいと。地方創生蔵を前面に出して、最初から(規模を)大きくせずに事業を進め、みんなが何か応援しないと、なくなってしまうみたいな(危機感が広がる)中で、逆にそういう雰囲気が経営には良かったのかなと思います。

――今ボスとして、どういうことを考えながら、過ごされていますか?
視察で酒蔵にお見えになった方々から「塚原君の酒蔵はみんなすごく楽しそうに働いている」って必ず言われます。それがすごくうれしくて、そんな酒蔵を業界としても会社としても経営者としても目指したいですね。

「北海道を酒どころに」が夢 道産酒好きの道民が増えるのが第一歩

――これから先、上川大雪酒造としてどんな未来を描いていますか?
本州の日本酒専門店さんに行き、全国の地酒のメニューを見てみると、北限は青森ですね。地酒マップでも青森県が北限です。

まだまだ、そういう飲食店さんが多く、北海道で日本酒を造っていると話すと、「北海道でも造れるんですね」と驚かれます。知名度はその程度です。

北海道民が今飲むお酒のうち、道産酒の比率は約2割と言われています。コップで5杯飲んだら1杯しか北海道のお酒飲んでないのです。

北海道の酒を4杯に1杯飲むようになったら、北海道は本当に酒どころになると期待しています。北海道の方々にもっと道産酒を飲んでもらうことと、全国地酒マップに北海道を載せることを目標に頑張りたいです。

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