購入したマイホームの前に立つアンソニー・バルガスさん=米中西部ミシガン州ディアボーンで2024年4月3日、大久保渉撮影

 11月の米大統領選まで半年。米経済は好調だ。個人消費は旺盛で企業業績も伸びている。背景にあるのは労働者の賃上げだ。米国では2023年に自動車や運輸、航空など幅広い業界の労働組合がスト権を確立し、大幅な待遇改善を実現した。彼らがストライキで得たものは何か。現場を訪ねた。【ディアボーン(米中西部ミシガン州)で大久保渉】

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実現させた“アメリカンドリーム”

 「見てくれ。僕が手に入れた悲願のマイホームだ」。米自動車大手フォード・モーターが本社を置くミシガン州ディアボーン。4月上旬、記者(大久保)が住宅街の一角を訪ねると、同社で検査技師として働くアンソニー・バルガスさん(39)が玄関先で出迎えてくれた。

 2階建ての地下室付き。庭の青い芝生がまぶしい。目の前の道路にはフォードのスポーツタイプ多目的車(SUV)「エスケープ」が止まっていた。バルガスさんの親世代の多くが実現した典型的な“アメリカンドリーム”の光景だ。

フォードの工場前でストライキのアピールをする全米自動車労働組合(UAW)の組合員ら=米中西部ミシガン州ウェインで2023年9月26日、秋山信一撮影

 バルガスさんがこの一戸建てを購入したのは23年秋。価格は25万ドル(約3800万円)だった。80年超の築古で相場より3割は安い。だが、昇給が長い間止まってきたバルガスさんにとって、それは大きな決断だった。

 長年の夢をかなえたのは、全米自動車労働組合(UAW)がフォードなど自動車大手3社(ビッグ3)を相手に起こした史上初の一斉ストライキだ。UAWは23年秋、40日超の闘いの末に4年で25%の大幅な賃上げを勝ち取った。その果実がもたらされたのだ。

 記者がバルガスさんに出会ったのは1月下旬、首都ワシントンでUAWが開いた集会だった。大幅な賃上げで米国の労働者は何を得たのか。それを知りたくて訪れた会場で、取材に応じてくれたのがバルガスさんだった。

 自動車の街、ミシガン州デトロイトで生まれ育った。米自動車産業を代表する大都市だったが、労働力が安いアジアへの製造業移転などで空洞化が進み13年に財政破綻。米国の「ラストベルト(さびついた工業地帯)」を象徴する都市となった。

 バルガスさんは大学中退で03年に検査技師の見習いとしてフォードに入社し、2年後に直接契約を結んだ。同級生より給料も良く、将来は明るく見えた。

 だが、07年に「サブプライムローン」問題に端を発する金融危機が起きる。フォードなどビッグ3の経営は瞬く間に悪化し、人員削減の大なたがふるわれた。運良く会社には残れたが、昇給が止まり物価上昇(インフレ)に対応した特別手当も廃止された。

 「あれ以来、フォードの労働者は同じ待遇を強いられてきた。なのに経営陣は業績が回復して巨額の報酬を得ている。不平等だ。それが僕たちの問題意識だった」

家賃は2~3倍、インフレ社会の米国

米国のインフレ率は依然として高水準

 熱弁を振るうバルガスさんに、記者は「でも、フォードなんだから、それなりの給料をもらっていたのでは」と聞いてみた。

 するとバルガスさんは首を横に振った。「問題は、米国ではずっと物価が上がり続けているということなんだ。家賃なんて15年ほど前に比べ2~3倍に上がっている。給料が増えなければ同じ水準の生活を保てないんだよ」

 20年にわたるデフレ経済を経験した日本と違い、米国は毎年あらゆるモノやサービスの物価が上がるインフレ社会だ。典型的なのが家賃だ。契約更新のたびに月数十ドル~数百ドル単位で値上げされる。バルガスさんが住む1人暮らしのアパートの家賃も月額1500ドル(約23万円)と、住み始めた20年前から2・5倍に上昇した。

秋の米大統領選に向けてバイデン大統領(右)を支持すると表明し、一緒に拳を上げる全米自動車労働組合(UAW)のフェイン委員長=米首都ワシントンで2024年1月24日、ロイター

 この物価上昇が一気に加速したのが、22年に全米を襲った40年ぶりの記録的インフレだ。ピーク時(22年6月)の物価上昇率は前年同月比9・1%。1年前と比べて平均的なモノやサービスの値段が1割近く上がる計算で、確かに収入が増えていないと生活はできない。

 バイデン政権は「インフレ率は低下した」と強調するが、足元の物価上昇率はいまだに3・5%で中央銀行が目標とする2%を上回る。

 バルガスさんは独身で1人暮らしだからまだマシだが、家庭を持つ世帯はもっと大変なはずだ。「賃上げ前にインフレで苦しんでいた家族を紹介してくれないか」と頼んだところ快諾してくれた。

家をリフォーム、娘は歯の矯正

 翌日、UAWの集会の後、バルガスさんが2人の同僚を連れてきてくれた。

 フォードの組み立て工場で働くジム・ルームスさん(48)とカール・リックさん(75)。3人とも、UAWのシンボルカラーである赤いTシャツを着ていた。

 ルームスさんは、教師の妻と10歳から16歳の4人の子どもと同居する大所帯。インフレでどれくらい生活が厳しくなったのか尋ねたところ、食費は月400ドル(約6万円)、通勤に使うガソリン代は月160ドル(約2万4000円)上がったと教えてくれた。

全米自動車労働組合(UAW)の集会に参加した(右から)ジム・ルームスさん、カール・リックさん、アンソニー・バルガスさん=米首都ワシントンで2024年1月24日、大久保渉撮影

 「給料が上がらないのに生活費だけ上がっていったんだ。まだ4人の子どもの教育費をためなきゃいけないのに。ヤバイだろ?」。そう語るルームスさんの言葉には説得力があった。

 賃上げで何を買ったのか。尋ねると、腕を組んで「そうだな」と少し考えた後で「家のリフォームと娘の歯の矯正だ」と教えてくれた。自宅のカーペットが汚れ、フローリングにしてほしいと妻に言われていたが諦めていた。米国では歯の美しさが重視される。子どもの時に矯正するのが普通だが、これも見送っていた。ルームスさんは「ストのおかげだ。妻と娘が喜んでくれてうれしかったよ」と笑った。

 年配のリックさんは妻と2人暮らしだ。賃上げで生活にゆとりが出たため、外食を増やし、衣服も新調した。「ジムは自宅のリフォームを地元の工務店に発注し、私も地元の靴屋で革靴を新調した。地元経済にもお金が回るようになると思うよ」と賃上げの意義を強調した。

 バルガスさんに紹介してもらった2人の話で、ストと賃上げの理解が深まった。丁寧に礼を伝え、今度はバルガスさんに聞いた。

 「ところで君は賃上げで何を買ったの?」

 「家だよ」

 「家?」。仰天して二度聞きする記者にバルガスさんは「そう。念願のマイホームさ」と笑った。それが冒頭に書いた一戸建てだ。記者はバルガスさんが住むミシガン州ディアボーンに行くことにした。

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