第二次世界大戦下の欧州で、ナチス・ドイツは「優良なドイツ民族」を人為的に増やそうと、自国や占領国の選別した女性にドイツ兵の子を産ませ、隔離して育てる「アーリア人増殖計画」を推進した。生まれた子を収容した施設は「レーベンスボルン」という。このレーベンスボルンで生まれ、波乱の人生を送った女性、カーリ・ロースヴァルさん(79)がこのほど来日し、キャンパる編集部の学生たちに、自らの経験と未来に託す思いを語ってくれた。【まとめ、日本大・田野皓大】
64歳で知った「レーベンスボルン生まれ」の過去
――カーリさんは、ご自身の出生の真実をつづった本を出版されました。その経緯を教えてください。
◆私がレーベンスボルンで生まれたという自分の過去を知ったのは64歳の時でした。私が今暮らすアイルランドで、自分の経験を学校などいろいろな場所で話していると、反響が広がり、テレビ局で私に関するドキュメンタリー番組やラジオが放送されたのです。次第に、多くの人から「本を出さないのか」と言われるようになりました。そして以前、ラジオ番組でインタビューをしてくれたジャーナリストと協力して本を出すことになったのです。
――本の作成は大変だったのでしょうね。
◆一つの章を仕上げるのに3カ月かかりました。私が語ったことをジャーナリストが文字に起こしていく作業です。笑ったり、泣いたり、感動したり、時にはお茶を飲んだりしながらね。今までほとんど忘れていたいろいろな思い出がよみがえってきました。
――読者からどんな反響が届きましたか?
◆たくさんの人に「ありがとう」と言われました。アイルランドには、私のように戦争の影響で自分がどこから来たか分からないまま養子になった人がたくさんいるのです。そのような人たちに自分のことを伝え、思いを共有することができました。
今は理解できる実母の気持ち
――ノルウェーで生まれ、親と引き離されてドイツに送られた後、孤児になったそうですが、幼少期の思い出を教えてください。
◆私は、幸運なことにスウェーデンの農家に養子として引き取られ、何もかもが幸せでした。しかし、7歳で初めて学校に行った際に「この子は何人なんだろう」と、校長先生などの大人からのいじめに遭ったのです。そのことを養父母に言ったら、自分が養子であることを教えてくれました。養父母は、私がどこから来たかを知りませんでしたが、優しく育ててくれました。その一方で、私のパスポートの国籍欄には国籍不明と記されていました。もし、自分がどこで生まれたのか分からなかったら、皆さんはどのように感じるでしょうか。
――そして、実の母を探し当て、会いに行ったのですね。
◆20歳の時、赤十字に情報を提供してもらい、母に会いました。とても、緊張しましたね。それ以上の感情は当時ありませんでした。母は、レーベンスボルンのことはもちろん親戚のことも、私に兄がいることも話してくれませんでした。今思うと、母は戦争の犠牲者で大変な思いをしています。私の生後10日には、私を取り上げられてしまいました。私が本当は何者だったのか、彼女が私に言えなかった気持ちは分かります。もし、今会えたらいろんなことを聞きたいです。
――ご自身がレーベンスボルン生まれだと知った時、どう思いましたか?
◆隠されていた大量の古い書類が見つかり、自分の生い立ちを知った時は、本当に自分に起きたことなのか信じられませんでした。
――向き合うのは、さぞ大変だったでしょう。
◆書類は、スウェーデン政府が非公開にしていたのです。書類は非常に膨大でした。それを一つ一つ読んでみて、感情的になることもありました。精神的につらくて読めないという時は、また翌日に読むこともありましたね。ともに日本に来て、今、私の隣にいる夫のスヴェンは、非常に支えになりました。夫は、書類の内容を一つ一つパソコンに記録していってくれたのです。大人であれば子どもを守ろうと思うことは当然だと思います。しかし、当時の人はなぜ子どもに対してこのようなひどいことができるのかと思いました。
――実の父についての情報もあったのですね。
◆父はドイツ兵であることは分かりましたが、詳しいことは分かりませんでした。なので、自分の半分が失われている気持ちです。
なぜ戦争の歴史から学ばないのか
――なぜ、レーベンスボルンの問題はあまり歴史として認識されてこなかったのでしょうか?
◆戦後、誰もその話題に触れたくなかったからです。そして第二次世界大戦では、多くのユダヤ人を虐殺したホロコーストや原爆投下など、他にもさまざまな悲劇があったからでしょう。
――今回日本に来られて、日本の若い世代に何を伝えたいですか?
◆一番伝えたいことは、絶対にいじめをしないでください、ということ。学校でも社会に出てもいじめは絶対にしないでください。そして、絶対に戦争をしてはいけないということです。
――戦争、そしてナチスのような民族差別や選別は今も絶えません。今の不安定な世界情勢についてどう思いますか?
◆なぜ、人々は戦争の歴史から学ばないのかと思っています。特に、女性や子どもが痛めつけられていることに、本当に胸が痛くなります。戦争は敵、味方関係なく皆が被害者です。
――大学の講演なども行われたそうですが、日本の若者の印象について教えてください。
◆私が会った日本の若者には、とても良い印象を受けています。自分が若い時よりも皆さんしっかりしていて、真剣に話を聞いてくれました。彼らを見ていると未来に希望を感じました。
未来を楽しみに、今を生きて
――戦争をしないために今、私たちのすべきことはなんでしょう。
◆大切なことは歴史について、戦争がいかにひどかったのかを繰り返し話すことです。そしてお互い助け合いをしようとすることです。暴力にはノーを、抱き合うことにはイエスを。みんなそうしてくれれば戦争はなくなっていきます。
――世界平和という目的のために自身の経験をシェアしているのですか?
◆はい。自分の経験を語ることで世界の一人でも多くの人を戦争から助けることができたらと思っています。だから、私にとってはとてもつらい思い出でも、皆さんに語っているのです。ですが、まだ平和は実現されていません。そう考えると私の試みは、まだ道半ばですね。
――戦争経験で苦しい思いをしている人にどのような言葉をかけたいですか?
◆起こってしまったことは過去のことなので、未来を楽しみにしてください。今を生きてください。私も今は夫のスヴェンと息子のローゲル、最愛の2人と一緒に歩んでいます。
レーベンスボルンとは
レーベンスボルン(直訳すると「命の泉」)は、1935年、ナチス・ドイツが「血統的に優れた民族」と見なす「アーリア人」の増殖を目的として開設した施設を指す。レーベンスボルンは、ホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)と表裏をなす、ナチスのゆがんだ優生思想に基づく蛮行として知られている。
ナチスはドイツ兵に、アーリア人の特徴であるとする「金髪、青い目」の女性と関係を持つことを推奨し、生まれた子どもをレーベンスボルンに隔離し教育していた。同施設は、当時ドイツの占領下にあったノルウェーにも多数設置された。
また同施設は、人種的特徴を満たすとされる子どもを占領国から拉致し、ドイツ人として教育を施す場としても使われた。
こうして強制的に集められた子どもらだが、「優良なドイツ民族」にふさわしくないと判断されると、強制収容所に送られたり、殺害されたりすることもあったという。
第二次世界大戦終了後も悲劇は続いた。ノルウェーなどでは反ナチス感情の高まりを背景に、レーベンスボルンが解体された後も、収容されていた子どもや、ドイツ兵との間に子をもうけた女性は差別的な扱いを受けた。【法政大・園田恭佳】
カーリさんの横顔
カーリ・ロースヴァルさんは1944年、ノルウェーの首都、オスロにナチス・ドイツが設置した「レーベンスボルン」で生まれた。母はノルウェー人、父はドイツの軍人だった。生後すぐにドイツの同施設に移された後、同国敗戦を機にスウェーデンの孤児院に送られ、そこで出会った夫婦に養子として引き取られる。自身が養子である事実を知らされるが、出生の詳細については分からずじまいだった。
次第に実親への思いは募り、就職後に実母を探し当てることに成功した。しかし念願の再会を果たした実母は過去の忌まわしい記憶を語ることはなかった。
その後、結婚や出産などを経てさまざまな人々と関わっていく中、偶然知り合った歴史研究家の手助けを得て、出生の秘密を知ることになる。64歳の時だった。
ナチスの狂気と戦争の深い闇に翻弄(ほんろう)されたカーリさんだが、安住の地のアイルランドでその経験を話したことが反響を呼び、2015年に半生記を出版した。同書は21年に邦題「私はカーリ、64歳で生まれた」(海象社)として日本でも発刊された。カーリさんは今も自身の経験や平和への思いを多くの人々に伝え続けている。【法政大・園田恭佳】
鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。