「殿、ご乱心!」のような、突然の非常戒厳(戒厳令)劇でした。ユン大統領はいったい何を…というより、韓国人にとって「戒厳令」とは何なのでしょう。40年前まで振り返ってみましょう。(アーカイブマネジメント部 疋田 智)

軍事政権から「ソウルの春」に

日本からの巨額の経済協力金をもとに、韓国が「漢江の奇跡」と呼ばれる高度成長を起こしていた頃、この国の政権は「軍事政権」でした。当時の大統領はパク・チョンヒ(朴正煕)。ところが、1979年10月、その長期独裁政権が突如、崩壊したのです。

パク大統領の葬儀、遺影の後を歩くのは娘のパク・クネ(朴槿恵)元大統領(Korea Democracy Foundation)

側近によるパク大統領の暗殺。韓国社会は政治的混乱に陥りましたが、同時に民主化の勢いも高まり、束の間の政治的空白は「ソウルの春」と呼ばれました。

「ソウルの春」だったはずが

「ソウルの春」は、1979年10月26日、パク大統領暗殺の直後から、翌1980年5月17日の戒厳令拡大措置まで続きました。

ソウル大学などでも民主化要求運動は盛んに行われました(ソウルの春・1980年)

この間、ソウルの街は学生集会や労働集会が盛んに開かれ「民主化はそこまで来ている」と思わせたそうです。

しかし、チョン・ドファン(全斗煥)大統領を中心とする新軍部が力を増すと、1980年5月17日には戒厳令が全国に拡大されました。パク大統領暗殺直後に宣布された戒厳令が、民主化の動きを受けて拡大された格好です。

全斗煥大統領就任式と戒厳令拡大後のソウル市内(1980年)

この戒厳令により、政治活動が禁止され、大学は閉鎖、集会も厳しく取り締まられました。

そこで押さえつけられた力が、ソウル以外で吹き出る場所を探していたというのが、光州事件前夜の状況でした。

光州事件の発端

その頃、朝鮮半島の南西部の大都市・光州市には、戒厳令に抗議する学生や市民が全国から続々と集結しつつありました。もともと光州には芸術家や文化人が集まる風土があったといいます。彼らは全南大学などに集まり、民主化を求めるデモを開始しました。

合い言葉は「光州で会おう」。全国から民主化を求める学生・市民が集まりました。(字幕は当時のもの)

1980年5月18日、デモに参加した人々に対し、軍が介入。鎮圧にあたった部隊が暴力的な手段を用いたことで、市民の怒りがさらに増幅し、抗議運動が激化することになりました。

学生・市民を待ち受けていたものは…(光州事件勃発・字幕は当時のもの)

軍との衝突と、市民の武装蜂起

投入された政府軍は、催涙弾や銃器を用いてデモ参加者を制圧し、多くの市民が犠牲となりました。非武装の市民に対しても過剰な暴力が行使されたとの証言もあります。

抵抗しようにも、手にした武器に圧倒的な差がありました。

鎮圧が激化する中、一部の市民は武器を手に取り、軍と対峙しました。これにより、市街地は一時的に市民の手に渡ります。

しかし、市民と軍ではやはり抵抗にも限界がありました。5月27日、政府軍が大規模な軍事力を動員し、光州市を完全に制圧しました。この過程で、さらに多くの人命が失われることになり、光州事件は悲劇のうちに幕を閉じたのです。

光州市内の体育館にはたくさんの棺が並びました。

光州事件と戒厳令がもたらしたもの

正確な死傷者数は今も議論の対象ですが、公式には200人以上が死亡、数千人が負傷したとされています。一部ではもっと多くの犠牲者がいたとの説もあります。

光州事件は韓国社会に大きな衝撃を与えましたが、その一方、民主化運動をより強力に進展させる契機にもなりました。

40年前の流血事件は、いまも韓国社会に影響を与えています。

光州事件は韓国現代史における民主主義と人権の重要性を象徴するできごとでしたが、光州事件と、そこに至るまでの「戒厳令」は強烈な記憶として、韓国国民の心に残っているのです。

だからこそ、なぜ? 騒動勃発からすでに2週間以上。その本当の答えはユン大統領しか知りません。

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