パレスチナ自治区ヨルダン川西岸地区のジェニン難民キャンプ。深夜に大きなサイレンの音が鳴り始める。その日は朝から「イスラエル軍の侵攻がある」とのうわさがキャンプ中を駆け巡っていた。

 ここで暮らすマハさん(58)は1月9日、娘のエリヤさん(20)を連れて、キャンプの入り口にある公立病院へ避難を始めた。長男、次男、三男とその妻子は、すでに夕方キャンプ外への避難を済ませていた。周囲には大慌てで車や徒歩でキャンプを離れる人の姿が見える。

 「最近ますますひどくなり、数日に1度こんな状態が続いている」とマハさんがため息をつく。

 上空をドローンが飛ぶ音がする。「○地区にスナイパーが配備された」「○地区で軍用ブルドーザーが通りを破壊し始めている」などの情報も瞬時にスマートフォンに飛び込んでくる。激しい戦闘音が聞こえ始めた。

 ジェニン難民キャンプは、1953年に創設された。イスラエル建国にともない難民となった人々とその子孫が暮らす。

 国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の見積もりでは、たった0・42平方キロに1万3000~1万5000人(キャンプへの登録人口は約2万4000人)が暮らしているとみられる。西岸地区のなかでも武装抵抗組織の勢力が強い地域とされ、集団懲罰的にキャンプの通りや水道管や電線などのインフラが頻繁に破壊される。

 私が初めてこの一家と出会ったのは2011年。以来繰り返し訪ね、生活をともにしながら撮影を続けている。マハさんの夫イマードさんは、02年の軍事侵攻時に暴行を受け、寝たきりの状態が長く続き、13年に46歳で亡くなっている。6人の子どもたちは、そんな環境のなかで育った。

 昨年2月、四男サリームさん(29)の親友アブーアリーさん(30)が武装抵抗組織の戦闘員として、キャンプに侵攻してきたイスラエル軍兵士との戦闘の末に射殺された。彼の墓に案内してくれた長男カマールさん(36)は「アブーアリーの死を喜んでやれ。ようやく彼は安らぎを得られたのだから。ここで尊厳もなく生きているよりずっといい」とつぶやいた。マハさんは「責任感が強く、自分勝手に生きられる『器用さ』がないまじめな子ほど、そういう道を選ぶことが多い」と話す。

 ガザ地区と比べて注目されることも少ない西岸地区だが、国連人道問題調整事務所(OCHA)によると23年にイスラエル軍の侵攻で殺された人は492人、そのうちの120人は子どもである。

【写真家・高橋美香(https://twitter.com/mikairvmest)】

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