「あの男を生きたまま連れてきて」。冷たい口調で電話口の部下に言い放つ黒人女性。2022年、世界的に配信され話題を呼んだ映画「イレイザー:リボーン」のワンシーンだ。女性は米連邦保安官局の幹部として組織に反旗を翻した主人公を追い詰めていく冷徹な役で、この映画には欠かせない人物といえる。演じているのは、南アフリカ共和国出身の女優、マンポ・ブレシア(46)。そんな南アフリカの大女優の写真をたまたまSNSで見つけた私は、仰天した。「この人を知っている」。
「不条理と闘いたい」若きマンポとアパルトヘイト
マンポ・ブレシアは1977年、南アフリカ最大の黒人居住区ソウェトで生まれた。
当時、南アフリカでは法によって定められた人種差別ー「アパルトヘイト政策」が行われていたため、黒人である彼女は様々な差別を受けて育った。黒人に住む場所や通う学校を選ぶ権利はなく、通行証なしには移動する自由もなかった。好きな仕事に就くことも、白人と結婚することも、当然許されなかった。差別に抵抗した黒人は次々と投獄され、拷問を受け、死んでいった。
その原体験こそが彼女の向上心を焚きつけた。
「不条理と闘いたい。恵まれない人のために働きたい」。
1994年、マンポが16歳の時、アパルトヘイト撤廃により初めて全人種が参加する歴史的な選挙が行われ黒人大統領ネルソン・マンデラが誕生した。
「黒人も白人も、
すべての南アフリカ国民が
人間の尊厳を侵害されない権利を保障され
心に恐れを抱くことなく
堂々と歩むことのできる社会、
平和な“虹の国”を
ともに作り上げましょう」
マンデラは就任演説で、多様な人種が融和する「虹の国」の理念を打ち立てた。
高校生だったマンポは、その言葉をテレビで聞きながら、初めて「私もこの国の主権者なのだ」と実感した。
極細眉にローライズが似合う“自慢の姉”
新聞記者だった父の仕事の都合で、私は2002年から2年間南アフリカのヨハネスブルクで暮らした。10歳という多感な時期だったが、楽観的な両親のもと英語も分からぬまま気付けばヨハネスの現地校に放り込まれていた。日本以外の世界を知らないおかっぱ頭の私を待ち受けていたのは、英語のほかに公用語として覚えなくてはならない「ズールー語」や「アフリカーンス語」、多種多様な人種・文化・宗教のバックグラウンドを持つクラスメイトとの邂逅だった。
登校初日の心細さは今でも覚えている。ただ、それは杞憂に終わった。当時の南アフリカはアパルトヘイトが撤廃されてから10年が経った頃で、国民全員が負の歴史を乗り越えた誇りを持ち、「虹の国」を目指してともに歩みを進めているような感覚があった。学校に私以外の日本人は一人もいなかったが、人とは違うそれぞれの「個性」こそ素晴らしいものなのだと教え込まれた。マイノリティであっても劣等感を感じることはなく、むしろ他人との違いを誇りに思えた。友達にも恵まれ、いつしかこの国が大好きになった。
中でも、特に楽しみにしていたことがある。
それは、姉のように慕うマンポが学校に迎えに来てくれることだった。
アパルトヘイト撤廃後、自由を掴んだ彼女は、奨学金で名門大学に進学。
「まったく知らない文化に触れたい」と日本に留学したマンポは、帰国後、その語学力を生かし、南アフリカに赴任してきた日本人の新聞記者のアシスタントをつとめることになった。それが、我が家との出会いだった。
共働きの忙しい両親にかわり、たまに私や姉の送り迎えを担ってくれていた。
ヨハネスブルクでは基本的に一人で街を歩くことはない。
歩けないこともないが、一日平均75件の殺人事件が起きるこの国で、あまりお勧めはしない。
私も他の子どもたち同様、誰かの迎えが来るまでおとなしく校内で過ごした。そうして夕日が差し込む時間帯になった頃、ようやくいたずらっぽく笑いながら右手をひらひらさせてマンポが登場すると、嬉しくて踊りだしたくなった。
当時から俳優としての道を歩み始め、連続ドラマなどに出演していたマンポは、すでにちょっとした有名人だった。彼女見たさに外で遊んでいた子たちも集ってくるほどで、私は周りから受ける視線に酔いつつ「マンポは私のお姉ちゃんなのだ」と心の中でささやかなマウントをとりながら、大好きなマンポとくっついて一緒に帰った。
マンポはとにかく派手で、とても素直で、どこか抜けていた。
いつも信じられないくらい長く四角い形のネイルをしていて、彼女が通ると甘いムスクの香りがあたりに広がった。当時流行っていた極細眉に、ローライズのジーンズが本当によく似合う人だった。親が仕事でいないときは、土日も私と姉の面倒を見てくれた。家ではずっとパジャマでいる私を「パジャマ・プリンセス」と呼び、鼻にいっぱいシワを寄せて笑いながら強く抱き寄せてくれる彼女が、大好きだった。太陽みたいに明るくまっすぐで、恋愛になると周りが見えなくなることもあったが、その欠点さえもすべて彼女の魅力だった。
父の赴任期間を終えて、私たち家族は2004年、日本に帰った。
帰国後の日々に忙殺され、いつしかマンポと連絡を取り合うことはなくなり、連絡先さえも分からなくなっていた。
「政治家や警察は信じることができない」 マンデラが掲げた「虹の国」の理念は
「日本のテレビ局の記者になりました。南アフリカの総選挙を取材するため、来月ヨハネスブルクに行きます。その時、会えないかな」
マンポと繋がる術をようやく見つけた私は、彼女のインスタグラムにメッセージを送った。
32万人もフォロワーがいる彼女が、このメッセージを見るだろうか。
もうパジャマ・プリンセスのことなんて、忘れてしまっただろうか。
だとしても仕方ない。メッセージを送った瞬間から、返事がくることはないと半ば諦めていた。
ところが。
「オーマイゴッド!愛しのミコ。いつでも予定を空けるよ!」
20年ぶりのマンポからの言葉は、想像以上に軽く、あっけなく返ってきた。
こんなことならもっと早くから連絡を取っておけばよかったが、とにかく、私たちは20年ぶりに会うことになった。
緊張しながら再会した「憧れのお姉ちゃん」は、眉毛こそ少し太くなってはいたが、おそろしく長く四角いネイルと、どんな人の心も溶かしてしまう太陽みたいな笑顔はまったく変わっていなかった。
今年は、南アフリカにとって初の民主的な選挙が行われてからちょうど30年の節目の年だった。30年間、この国では、マンデラ元大統領が率いた与党ANC(アフリカ民族会議)が、国民の圧倒的な支持のもと政権を維持し続けていた。
ところが長期政権となったANCの内部では汚職が蔓延し、一向に縮まらない経済格差、世界最悪レベルの失業率、国家的災害とも言われる電力危機などから、国民の心はANCから離れつつあった。
5月に行われた総選挙では、与党ANCが初めて過半数を割り、白人主体で親欧米の野党DA(民主同盟)らとの連立政権が発足した。
揺らぐことのなかったマンデラの党・ANCの時代は、一つの終わりを迎えた。
ソウェトで生まれた一人の黒人少女は、差別が撤廃されてからの30年あまりをどう見てきたのか。
「確かに私たちは民主主義を手に入れ、自由になった。投票権を得て、市民として認められるようになった。だけど、今の南アフリカでは毎日のように計画停電が行われ、生活に必要な電気すら手に入らない。政治家や警察は汚職にまみれ、信じることができない。そんな国が、果たして本当に“自由”だと言えるでしょうか?
アパルトヘイトは撤廃され、肌の色による差別はなくなった。
でも、この国には“経済的な不平等”が今も根強く残っています」
白人の失業率が9%であるのに対し、黒人は37%。
世界銀行の調査では、いまも人口の1割が富の7割を支配する、「世界で最も不平等な国」だといわれている。
実際に選挙前の取材では、白人排斥をも辞さない過激な主張を行う急進左派政党(EFF=経済的解放の闘士)が若者の熱狂的な支持を集めていた。縮まらない経済格差から、人種間の分断は再び深まっているように感じられた。
マンデラが掲げた「虹の国」の理念は、失われてしまったのだろうか。
「すべてがダメなわけじゃない。ここからきっと良くしていける。上手くいかなかったのは、いつしか政治家が国民のためではなく私利私欲のために動くようになってしまったから。恵まれない人にチャンスを与え、国民のために奉仕する政府がいれば、この国はもっと豊かになれる」。
貧困への支援「なりたいと思う人間になってほしい」
そんな彼女は今、首都ヨハネスブルクにて夫と11歳の娘と幸せに暮らしている。
「夫とはジムで出会ったの。向こうが一目惚れしちゃって」
夫はイタリア系の白人。「雑婚禁止法」があったアパルトヘイトが続いていれば、一緒になることは叶わなかった2人だ。
子供好きのマンポはいつか親になりたいと思っていたが、子供に恵まれることはなかった。
長年夫婦で不妊治療を続けた末、養子縁組で子どもを迎える決断をした。
緊張と不安の中、自分の娘となる赤ん坊を迎え入れた。
初めてその子を抱いた時、乾ききったマンポの心に、恵みの雨が降り注いだような気持ちになった。
ひび割れた大地を潤し、豊かさもたらしてくれる「雨」のような存在。
新しい命の名前にふさわしいと思った。
娘を、「レイン」と名付けた。
マンポの胸元には、日本語でその名前が刻まれている。
「彼女の母になれたこと、夫の妻になれたことは、間違いなく人生で起きたもっとも素晴らしいことでした。でも、娘からは『なんで天気なんかの名前にしたの』としょっちゅう怒られるよ」
昔と同じように、鼻にしわを寄せながらいたずらっぽく笑った。
マンポは、これからの南アフリカがレインちゃんの誇りに思えるような国であってほしいと願う。
「偏見や抑圧を感じることなく、なりたいと思う人間になってほしい。自分の娘だけでなく、すべての南アフリカの子どもたちがそうなれるよう願っている」
そんなマンポは今、南アフリカ国内で貧しい子供たちが通う学校を援助している。
普段映画やテレビの中にいる彼女が学校に顔を出すと、子どもたちは嬉しそうにはしゃいだ。自らの俳優としての「価値」をこうしたところで発揮するマンポの心は、「恵まれない人のために働きたい」と願い奮闘した10代の頃と変わっていなかった。
自分が受け取ったたくさんの愛を、子どもたちに返したい。
一人一人が平等な機会に恵まれれば、きっとこの国の未来も変わっていく。
そう信じている。
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