「忘れられた戦争」。こう呼ばれる戦いがあります。太平洋戦争の2年前に起きた「ノモンハン事件」です。日本と当時のソ連(現ロシア)・モンゴルが国境をめぐり85年前に戦った戦争。日本軍はここで敗北を喫しましたがその教訓を生かさず、太平洋戦争へと突入していきました。「ノモンハン事件」の現場から今、私たちが学ぶべき歴史の教訓とは。

100歳の元看護婦が見た戦争

今年100歳を迎えた女性が語り始めたのは、85年前の戦争の記憶でした。

チィメド・ツェリンさん(100)
「爆弾の破片で重傷を負った兵隊が叫び声をあげながら、死んでいきました」
「私は看護婦でしたから、目の前で命を落としていく兵隊たちのために泣きました」

モンゴルの首都ウランバートルで暮らす、チィメド・ツェリンさん。耳は少し遠くなったものの、当時のことをはっきりと覚えていました。

1939年5月、日本軍がモンゴルに攻めてきたと聞き、「国を守りたい」と看護婦を志願しました。当時15歳。病院に運ばれてくるソ連兵やモンゴル兵を必死に看護しました。

「たくさんの負傷兵が運ばれてきて、寝る暇も食事をする暇もないくらい忙しかった」
「日本軍は病院の敷地にも爆弾を落としていきました。捕虜になった日本人もたくさん見ましたよ」

彼女が目撃したのは、日本軍とソ連・モンゴル軍が激しく戦った「ノモンハン事件」でした。

大地に刻まれていた85年前の戦争の痕

1932年、日本は現在の中国東北部に「満州国」という傀儡国家を作りました。「満州国」に駐留していた当時の日本軍はソ連・モンゴル軍と国境線をめぐりたびたび小競り合いを繰り返していましたがついに1939年5月、軍事衝突に発展します。4か月にわたり繰り広げられた戦いは日本、ソ連、モンゴル軍合わせて4万人近くの犠牲者を出した末、日本の敗北に終わりました。

ウランバートルから東へおよそ1000キロ。私たちは現場を訪れることにしました。

どこまでも続く草原。馬たちが水辺で遊ぶ、雄大な景色が広がっています。舗装されていない道路を走ること3日。ようやく「ノモンハン事件」が起きたハルフゴル村にたどり着きました。

案内してくれたのはハルフゴル村で「ノモンハン事件」を40年以上調査している研究者のミャグマルスレンさん(70)です。

案内された草原で目にしたもの。それは、85年前の戦争の残骸でした。

墜落した戦闘機。日本の軍人たちが乗っていた車。ソ連軍の戦車。地面には砲弾の破片が散らばっていました。

戦争の痕跡は、大地にもくっきりと刻まれていました。ドローンを飛ばすとソ連軍が掘った塹壕が現れました。まるで地割れのように数キロにわたって広がる塹壕。ソ連軍はここに潜んで連日、日本軍に激しい攻撃を浴びせ続けました。

地面いっぱいに広がる穴は日本軍が戦闘機から落とした爆弾の痕です。当初、日本軍は空からの攻撃で有利に戦いを進めていましたがソ連軍が最新鋭の戦闘機を投入したことで一転、劣勢に陥ったといいます。

モンゴルの大地は、戦争の様子を生々しく私たちに伝えていました。まるで、時がとまったかのように。

モンゴル人にとっての「ノモンハン事件」

ちょっと脇道にそれますが、「ノモンハン事件」を語るとき、忘れられがちなのがモンゴル人の存在です。日本とソ連の戦い、ということばかりがクローズアップされますが戦争はモンゴル人の土地で起きたのです。モンゴルの人たちはどう思っているのでしょうか?

モンゴル人男性
「歴史はあまりわかりませんが、戦争があったことは知っています。母国を守るために戦ったということですよね」
モンゴル人男性
「日本の強欲な奴らがモンゴルを攻めてきたので、ソ連とモンゴルの若者たちが土地を守って死んだんですよ。たくさんの若者の命が失われて残念だと思います。でもモンゴルの独立、国境、そして自由を守るための戦いでしたから」

当たり前ですが彼らにとっては大切な祖国を守るための戦争でした。「ノモンハン事件」を描いた本では「何もない原っぱをめぐって争った愚かな戦い」などといった記述が散見されますがここは何もない土地ではない。ただの草原に見えるが、モンゴル人にとっては大切な祖国の土地だった、という視点を忘れてはならないと思いました。モンゴル兵の死者は990人に上っています。

勝敗を分けた「兵站・補給」「兵器の近代化」「情報」

本題に戻ります。なぜ日本は負けたのか?ミャグマルスレンさんの考えはこうです。

「ソ連は兵站や補給、戦力で優位でした。特に地形をよく知っていて正しい情報があったことがソ連の勝因だと思います」

多くの歴史書が日本軍は「地形をよく調べず、現場の情報を軽視していた」と指摘しています。それを象徴する場所を見せてもらいました。

「ここは高地なので、敵を見張るには有利でした」

私たちは写真の手前、ソ連軍の陣地があった場所に立っていました。真ん中を流れるのがハルハ河。その向こう側が日本軍の陣地です。見ての通り、ソ連側から日本軍は丸見えでした。両軍の陣地には高低差があったのです。この高台からソ連軍は連日砲弾を撃ち込み、戦況を優位に展開しました。当たり前ですがここは日本にとっては「よその土地」。しかしソ連・モンゴル軍にとっては「地元」です。地形や天候を知り尽くしたソ連・モンゴル軍が情報面で優位だったのは当然だとミャグマルスレンさんはいいます。

また、ソ連軍の物資補給能力の高さ、さらに戦車や武器が近代化されていた点も指摘しました。

「ソ連軍の戦車や武器の性能がよかったのです。日本軍はソ連の戦車を倒すため、ガソリンに火をつけた布を長い竹の棒の先につけ、それで戦車をたたいていました」

最新鋭の戦闘機や戦車を投入したソ連軍と、それに竹の棒で立ち向かった日本軍。情報を軽視し、ソ連軍の戦力を過小評価していた点も敗因のひとつだといいます。

「世界の歴史を見れば、勝った側は自慢する。負けた側は損害を隠す。それが普通です。日本はノモンハンで負けたのに、損害を控えめにしか評価しなかった。もし日本が敗北から教訓を学んでいれば、第2次世界大戦は起きなかったし、広島、長崎に原爆が落とされることもなかっただろうと思うのです。教訓を得なかったから、戦争を続けたのでしょう」

ノモンハンで日本軍が軽視したもの。それは物資の補給や準備といった兵站、装備の近代化。そして正確な情報分析。まさに太平洋戦争の敗因といわれたこと、そのものでした。しかし日本はノモンハンから教訓を得ないまま、太平洋戦争に突入。敗戦を迎えました。ミャグマルスレンさんは言います。

「モンゴルの若者たちも、戦争を知らないです。戦争を語れる人もいなくなりました。ノモンハン事件については、まだまだ研究が足りないです。日本、ロシア、モンゴル。研究者が顔を突き合わせて新しい情報を発掘し、本当の事実は何だったのか研究する必要があります。そして、若い人に引き継いでいくべきなのです。それがよりよい未来へつながるのです」

100歳の元看護婦が今、若い人たちに伝えたいこと

15歳で看護婦として戦争に参加したツェリンさん。

「たくさんの若い兵隊たちが死んでいくのがとても悔しかったです。日本、ソ連両方の兵隊が命を落としていくのですから、悲しいに決まっています」

100歳になった今、若い人たちに伝えたいことがあるといいます。

「戦争というのは大変悲惨なものです。今も世界のたくさんのところで戦争が起きているのは残念で悲しいです。二度と戦争を起こさないようにして欲しい、と伝えたいです」 

編集後記

ノモンハン事件の現場となった草原には、黄色い花が点々と咲いていた。ここで死んだ兵士は4万人を超える。遥か故郷を離れ、彼らは何を思っていたのか。85年前の痕跡が大地に刻まれたままになっているノモンハン事件の現場で、そんなことを考えていた。

こんな話を聞いた。10年ほど前、ハルフゴル村の「ノモンハン事件」博物館を2人の日本人の若者が訪ねてきた。見学を終えた2人が博物館に置いてある感想ノートに書き残した言葉。それは。

「今やれば日本が必ず勝つ」。

この話をしてくれたミャグマルスレンさんは「彼らは悪くないよ。きっと豊かな日本から来た若者たちは貧しいモンゴルを見て、なんでこんな国に負けたんだろうって素直に思ったんだと思うよ」とフォローしてくれた。
でも、正直に言おう。私は若者たちの想像力の貧困さに呆れ、とても嫌な気持ちになった。

戦争に負けた歴史は格好悪い。負けた歴史は「なかったこと」にしたい。太平洋戦争が終わり80年が過ぎようとしている今もそのような「負の歴史を直視しない」風潮が世にあふれている。ノモンハン事件で敗北を喫した当時の日本もそうだったのだろう。
「なかったことにしよう」。実際、ノモンハン事件の反省も教訓も生かされず、日本は太平洋戦争に突入し、破滅的な敗北を喫することになる。
同じことを繰り返していないか。私たちはいつになったら歴史から学ぶのか。モンゴルの大地は私たちに、問いかけている。

文 JNN北京支局長 立山芽以子
撮影 JNN北京支局 室谷陽太

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