79年前に終わった戦争。しかし中国では終戦後50年以上たってから、突然戦争の被害者になり、今もその被害に苦しむ人たちがいます。旧日本軍が中国の大地に捨てていった毒ガス兵器の被害者です。「人生が無茶苦茶になった」。毒ガスによって健康を損ね、仕事を失った人。家族がバラバラになった人。差別に苦しむ人。毒ガスは本人だけでなく、子どもたちの人生にも深刻な影響をもたらしました。平穏に暮らしていた人々の人生を壊してしまった毒ガス。今も重い健康被害に苦しむ人たちの話を聞きました。
「土に触ったら我慢できないほどの激痛が・・・」
その女性の手は、震えていました。
于景芝(う・けいし)さん(76)。
「ほら見て。震えてる。震えが止まらないのです」
大きな窓から差し込む、やわらかい陽の光がマンションの部屋を明るく満たしていました。窓際に置かれたベッドで寝たきりの生活を送っている于さんの体は、とても小さく見えました。鼻には酸素を送り込むためのチューブ。私はそっと、彼女の手を握りしめました。
中国北部、黒竜江省チチハル市で暮らす于さんの体に異変が起きたのは2003年のことでした。整地したばかりの自宅の庭の土に触った瞬間、激痛が走ったのです。
于景芝さん
「土に触れた手には水疱ができ、我慢できないほどの激痛が走りました。息をすることさえ苦しかった」
手はたちまち赤紫色に腫れ上がり、水疱ができました。呼吸も苦しくなりました。以来、体が震え、全身に力が入らなくなりました。
ここまで一気に話した于さん。突然、呼吸が乱れ始めました。
于景芝さん
「しゃべると苦しくなるのです」
庭の土にしみ込んでいたのは、日本軍が79年前、中国の大地に捨てていった毒ガスでした。
激痛の原因は…旧日本軍が捨てていった「毒ガス兵器」
日中戦争のさなか、当時の日本軍は中国に毒ガス兵器を持ち込み、実戦で使いました。
1945年8月15日。戦争に負けた日本は中国から撤退しましたが、その際中国全土に毒ガス兵器を捨てていったのです。中国の大地で眠り続けた毒ガス兵器は数十年後、農地やマンションの建設現場などから偶然掘り出され、今に至るまで中国の人々に健康被害をもたらしています。
チチハル市で暮らす楊樹茂(よう・じゅもう)さん(60)もまた、被害者の一人です。
楊樹茂さん
「庭に敷くための土を購入しました。土に触れたとたん足が赤く膨れあがり、水疱ができました。水疱はどんどん大きくなりました」
2003年8月のことでした。土に触れた右足の痛みはどんどん強くなり、夜になると体全体に激痛が走り、吐き気が止まらなくなりました。次の日病院に行くと「イペリット(毒ガスの一種)中毒」だと診断され、そのまま入院することに。同じ土に触った複数の人が病院に運ばれたといいます。
妻と3人の子どもと暮らしていた楊さん。真っ先に考えたのはこれからの生活のことでした。
楊樹茂さん
「子どもは学校に通っていたし、稼ぎ手は私だけです。どうやって暮らしていけばいいんだろう」
当時、屋台でピーナツやスイカの種などを売る仕事をしていましたが、人々は「毒ガスがうつる」と楊さんを避けるようになり、商売を続けることができなくなってしまいました。
楊樹茂さん
「まるで、今のコロナのように、みんなが私を避けるようになってしまったのです。一緒に風呂に入るのも断られました」
仕事を探しましたが「毒ガスの被害者だ」といわれ、誰も雇ってくれません。収入を失ったことで妻は精神的に不安定になり、家を出て行ってしまいました。教育費が払えず、3人の子どもは学校を続けることができなくなりました。結婚や就職などへの差別を恐れ、子どもたちは今も父親が毒ガスの被害者だということを隠し、チチハル市から遠く離れた場所で暮らしています。
楊樹茂さん
「当時、我が家は裕福ではありませんでしたが、生活に困ってはいませんでした。わずかですが貯金もありました。屋台の仕事は好調だったのですが、まさかこんな打撃を受けるとは思ってもみませんでした」
毒ガスの影響で体調を崩しがちな楊さんに代わり、両親がゴミ拾いの仕事をして生活を支えました。
20年以上たった今も楊さんの足は痛み、赤く腫れあがっています。肌が焼けるような痛みがあり、うまく歩くことができません。痛みが強いときは意識がもうろうとし、時々熱も出ます。しかし病院に行くお金はありません。楊さんの寝室にはたくさんの市販薬が置いてありました。医者にかかることができないため、市販薬でしのいでいるのです。しかしそのお金すら、ままならないといいます。
楊樹茂さん
「毒ガスは私と家族の人生をめちゃくちゃにしました。この辛さはなんとも表現しようがありません。でも、辛くても生きていくしかないんです」
ゴミ拾いをして生活を支えてくれた両親は亡くなり、現在一人暮らしの楊さん。ガスも通っていない小さな家の台所には、自炊用の白菜と小さな大根が転がっていました。
中国全土に40万発…日中で合意も進まぬ毒ガス兵器の処理
中国政府によりますと、旧日本軍によって遺棄された毒ガス兵器の被害者は2000人に上ります。1997年に化学兵器禁止条約で日本に対し、遺棄化学兵器の回収が義務付けられました。これを受け日本政府は中国国内に処理施設を作り、毒ガス兵器の発掘、処理作業を開始。これまで9万発余りを回収しましたが今もなお40万発以上が埋まっているとされています。
日本政府は2027年までに遺棄化学兵器の廃棄を完了するとしていますが、新型コロナウイルスの感染拡大で事業が中断したこともあり、そのめどはたっていません。
中国外務省の林剣(りん・けん)報道官は7月30日、遺棄化学兵器について「今日に至るまで中国人民の生命と財産、環境の安全に深刻な脅威となっており、廃棄は日本側の逃れることができない責任である。廃棄プロセスを加速させるよう強く求める」と主張しています。
リサイクル業を営む王成(おう・せい)さん(43)は、2003年、仕事で土の中に埋まっていたドラム缶を運んでいるときに毒ガスの被害にあいました。
王成さん
「ドラム缶の中身が何かは知りませんでした。油かと思ったんです。匂いがきつくて、油が腐っているのかと思いました」
ドラム缶は腐食し、穴が開いていました。ゴム手袋をしていましたが手には火傷のような症状がでました。吐き気がして目が赤くなり、お酒を飲んだ時のようにふらふらしたといいます。軍の病院に運ばれ、初めてドラム缶の中身が毒ガスだと知らされました。
王成さん
「チチハルに毒ガス兵器が埋められているなんて聞いたことがなかったです。自分が毒ガスの被害者になったと聞いてとても落ち込みました。完治しないだろうと思ったから」
毒ガスの影響で気管支炎を患い、少し歩いただけでも息が切れるといいます。体力が落ち、重いものが持てなくなりました。リサイクル業の仕事ができなくなったことから収入を失い、妻とも離婚せざるをえませんでした。弟が生活を支えてくれていますが17歳になる長男には経済的に苦しい思いをさせてすまないという気持ちでいっぱいだといいます。
王成さん
「息子の友達は、両親にどこかに遊びに連れて行ってもらったり、いい学校に通わせてもらったりしているのに、私は何もしてやれない。むしろ『父親は毒ガスの被害者だ』と陰口を言われ、友達が離れていく。少しでも息子のために何かしてあげたいのですが」
王成さん
「当時、私は22歳でした。毒ガスのせいで人生の一番いい時期を無茶苦茶にされたのです。友達も離れていきました。二度とこのようなことが起きないようにしてほしいのです。私たちのような被害者がもう生まれないように、そして、中国にはまだ私のような被害者がいることを日本のみなさんに知ってほしいのです」
裁判では敗訴 続く被害者の苦しみ「私たちを助けて」
被害にあってから20年以上たった今も寝たきりの生活を送る于景芝さん。2人の子どもは中国南部に出稼ぎに行き、生活費や治療費を送ってくれますが、とても足りないといいます。
于景芝さん
「日本政府はひどすぎます。入院して治療したいのにお金がありません。せめて治療させてください。もう苦しすぎるのです。私たちを助けて」
毒ガスによって健康被害を受けた人たちは日本政府に対し、損害賠償を求める裁判を日本で何回かにわたり起こしました。今回お話を聞いた3人も中国政府が認定した毒ガス被害者として裁判にかかわっています。裁判では「毒ガス兵器は旧日本軍が遺棄したもの」と認め、「兵器の遺棄は違法であり、日本政府は住民に危険が及ぶことは予見できた」としたものの、2014年、日本政府の賠償責任を認めない判決が日本の最高裁判所で確定しました。ただ、裁判とは別に日本政府は3億円を被害者に支払うことで中国政府と合意しています。
于景芝さん
「毒ガスさえなければ私の人生はこんなことにならなかった。怒りを感じています」
終戦から79年。しかし、彼らの中でまだ戦争は終わっていないのです。
取材を終えて
戦争の被害者は、また加害者でもある。今、世界各地で起きている戦争でも、普通の市民が兵士となって他国を侵略し、人を殺す。一方である日突然、自分が暮らしている街が戦場になる。戦争で人は被害者にもなるし、加害者にもなる。
日本もまた、79年前の戦争では被害者でもあり、加害者でもあった。広島や長崎、沖縄だけでなく、全国の都市が狙われた空襲などで多くの市民の命が失われた。満州からの引き揚げやシベリア抑留などもまた、被害の歴史である。一方で日本は朝鮮や台湾などを植民地にし、中国をはじめアジアの国々を侵略した。その過程で日本の市民が兵士となり、アジア諸国で多くの命を奪ったのも、また事実である。
時に私たちはこうした「加害の歴史」を忘れがちである。
旧日本軍が残した毒ガス兵器が、現代を生きる中国の人々を苦しめている。これもまた、日本が向き合わなくてはならない「加害の歴史」である。中国の大地に残された毒ガス兵器は40万発以上。1日も早く処理を終わらせるとともに、今も苦しむ被害者たちに何かできることはないのか。被害者たちのまなざしは、現代に続く「戦争責任」を問いかけている。
JNN北京支局長 立山芽以子
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