80年前の中国・重慶であった「加害の歴史」

日中戦争のさなか、当時の日本軍は中国内陸部にある重慶(じゅうけい)という街に、6年にわたり空爆を繰り返した。「重慶爆撃」である。日本ではあまり知られていないこの「加害の歴史」。当時を知る人が年々少なくなる中、今、被害者たちが伝えたいこととは。

「魔都」と呼ばれる街

そこはまるで、迷路のような街だった。

中国の内陸部にある重慶市。北京、上海などと並ぶ直轄市で人口は約3000万人。世界最大の都市である。広さは北海道とほぼ同じ。ひとつの地方都市の面積が北海道と同じ、と言われるといかに中国が巨大な国かがちょっとだけ手ごたえをもって理解できる気がする。

長江と山に挟まれた、わずかな平地にひしめきあうようにビルが立ち並ぶ、一種独特な景観が重慶の特徴だ。ユニークなビルも多く、訪れる人の目を飽きさせない。急な坂道をのぼるたび、角を曲がるたび、また違った景色が広がり、迷子になりそうだ。街の構造の複雑さから重慶は「3D都市」「幻の都」などの愛称で親しまれている。

街を歩いていて気が付くのは、防空壕の多さだ。おしゃれなレストランになっている防空壕も多い。なぜ重慶に防空壕が多いのか?その理由は、日本にあった。

1万人が死亡…「重慶爆撃」とは

6月5日午前10時30分。
重慶の空に、12分にわたり警報が鳴り響いた。市内にある重慶爆撃を記念する碑の前には多くの市民が集まり、黙とうをささげた。

記念碑の前で開かれた追悼式典に参加した女性は涙を浮かべながらこう話した。
「当時の人たちのことを思うとなんといっていいか…日本人をとても恨みます」
重慶爆撃の残虐さを教えるため、子どもを連れてきたという男性は「こういう事実があったことを忘れないほしいです」と訴えた。

重慶は1937年から46年まで蒋介石(しょうかいせき)率いる国民党政府の臨時首都だった。時は日中戦争のさなか。日本軍は国民党政府に圧力をかけるため1938年から44年までの6年にわたり重慶を空から攻撃した。爆撃は200回以上に及び、1万人以上が犠牲になったといわれる。特に1941年6月5日の爆撃では数千人が死亡したとされる。
重慶爆撃は世界で初めて行われた、市民をターゲットにした無差別爆撃のひとつだったともいわれ、実際、犠牲者のほとんどは一般市民だった。

「人が多すぎて息ができなかった」…飛行機好きの少年が見た爆撃

粟遠奎さん(90)は飛行機が大好きな少年だった。日本軍の爆撃機が飛んでくると外に飛び出し、その数を数えるのが常だった。しかし。

粟遠奎さん
「爆撃によってたくさんの人が死に、飛行機は怖いものだと分かったのです」

1941年6月5日。日本軍の爆撃機が重慶に迫り、空襲警報が鳴り響いた。度重なる爆撃から逃げるため、市民たちはあちこちに防空壕を掘っていた。粟さんも家族と一緒に近所の防空壕に逃げたがあまりに人が多すぎて酸素が薄くなり、息ができなかったと振り返る。

粟遠奎さん
「人が折り重なっていました。みんな寝ているように見えたのですが、実は息ができなくて死んでいたのです。私は、死んだ人の下から発見されました」

やっとのことで防空壕から這い出た粟さん。目の前に広がっていたのは、廃墟となった重慶の街。そして、多くの死者だった。

粟遠奎さん
「多くの遺体を川に運びました。当時『空から災いが降ってくる』と人々は言いました。私たちに何か落ち度があったのでしょうか?日本軍は中国を侵略し、財産を破壊し、生活を無茶苦茶にした。それは罪深い行動でした」

一緒に逃げた2人の姉は、見つからなかった。6月5日の爆撃だけで数千人が死亡したといわれている。

粟遠奎さん
「日本の若い人には、歴史を忘れずに学んで、教訓を生かし、将来同じことが起こらないようにしてほしいです」
「私たちはすべての戦争に反対し、平和を愛さなくてはなりません」

「今思い出しても苦しい思い出…私は日本が嫌いです」

92歳の陳桂芳さんは爆撃で両親を失った。

陳桂芳さん
「まるで雨のように爆弾が落ちてきました」

母は即死。父は重傷を負い、爆撃の翌日、死亡した。陳さんの頭の中には爆弾の破片がまだ刺さったままだという。裕福な家だったが爆撃によって家族も財産もすべて失った。

陳桂芳さん
「日本はあちこち爆撃して、本当に悪かったです。私は日本が嫌いです」
「今思い出しても、本当に苦しい思い出です。なぜ重慶を爆撃しなくてはならなかったのでしょう」

現代も続く戦争…「戦争によって苦しむのは市民」

簡全碧さん(86)は、3歳の時、被害にあった。簡さんをかばって祖母は死亡。その後、両親も亡くなり、妹は他人の家に引き取られた。

簡全碧さん
「覚えているのは祖母の腕の中にいたということだけです」
「あの爆撃がなければ幸せな家族のままだったと思います」

当時の傷が今も体に残っている。

簡全碧さん
「冬になると体が痛みます。仕事をしていた時は、倒れるほど、痛みがありました」

ウクライナにパレスチナ。今も、世界各地で戦争が続いている。空から降ってくる爆弾におびえる子どもたちがいる。簡さんは言う。

簡全碧さん
「戦争で苦しむのは市民ですよね。ウクライナでも、激しい戦闘により市民が苦しみ、家族が壊れています。世界が平和になるように願っています」

重慶爆撃から80年あまり。

「世界が平和になるように」

かつて空から降ってくる爆弾におびえた子どもだった人たちの、切なる願いだ。

文 JNN北京支局長 立山芽以子
撮影 JNN北京支局 室谷陽太

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