犬飼地区の井手さらい=2024年3月10日午前11時43分、萩尾信也撮影

 東方に望む九州脊梁(せきりょう)山地の稜線(りょうせん)に、まだ雪が残っていた。彼岸の入り(3月17日)前の熊本県山都町。「白糸台地」と呼ばれる高台に連なる棚田で、恒例の「井手さらい」が行われた。

 井手とは棚田にある用水路で、井手さらいは中にたまった土砂などを取り除く作業をいう。

 平野部とは異なり、傾斜地にある棚田は維持に手間がかかる。田植え前には、井手や棚田の周りの雑草を焼き払う「野焼き」と、井手さらいを実施。夏には2回の草刈りが欠かせない。

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 「夫役(ぶやく)」と呼ばれる作業には、井手の農業用水を利用する農家から各戸1人の参加が求められている。人手が出せない場合は、「出不足金」を徴収されたという時代もあった。

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 棚田が開墾される前の白糸台地には「坪田」と呼ばれる小川沿いの一握りの田んぼを除いて畑地しかなく、人々は飢えと貧困に苦しんでいた。炊事洗濯や畑の水やりも一苦労で、湧水(ゆうすい)や谷底の川から水を運び上げる日々だった。

 当時を物語る「茅立(かやた)て風呂」という言葉が残っている。「五右衛門風呂の水汲(く)みを軽減するために追い炊きを繰り返すうちに垢(あか)がたまり、茅を刺しても倒れなかったという逸話です」。郷土史家の田上彰さん(71)が教えてくれた。

通潤橋の放水=熊本県山都町で2023年9月8日、小型無人機で平川義之撮影

 江戸後期に「窮状を救おう」と立ち上がったのが、現在の町長にあたる「惣庄屋(そうじょうや)」の布田保之助(ふたやすのすけ)だ。台地の上に水を送るための水路橋「通潤橋(つうじゅんきょう)」の建設を発案。熊本藩に掛け合って資金を調達し、1852年から1年8カ月をかけ、高さ21メートル、長さ78メートル、幅6・6メートルに達する石橋を建設した。

 重機もない時代に、遠隔地から石工(いしく)を呼び寄せ、村人総出で作業に従事。井手も整備されていって、白糸台地に棚田が広がっていった。住民は困窮を脱し、主食も雑穀類から米に変わった。

 人々は保之助を「神」のごとくあがめて、通潤橋の傍らに神社を建立し、感謝の祈りをささげてきた。「白糸の人々は、通潤橋を通った水の恩恵を受ける民として、自らを『水下民(すいかみん)』と呼ぶようになった」。前出の田上さんは歴史をひもといてくれた。

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 農業の衰退は、戦後の経済成長期に重なる。若者は成長を支える働き手として都市部に流出し、少子高齢化が進んだ。夫役に参加する人も高齢化で減少。手間のかかる棚田に見切りをつけ、耕作を放棄した棚田が散見されるようになった。

 そして、2016年4月の熊本地震が発生。棚田ののり面や農道が崩落し、井手を土砂が埋めた。中山間地の取材で10年ほど前から山都町に通っていた私が、井手さらいに参加するようになったのはその年からだ。

 全国から支援に駆け付けたボランティアとともに、スコップを手に井手の泥かきに汗を流して腰が悲鳴を上げた。支援の手を募ったのは、白糸台地にある犬飼の集落で無農薬の米とお茶づくりを手掛ける下田美鈴さん(65)だった。

 有機農業の普及や、棚田の保全に取り組む一方で、38年前からは町内外の子供を集めて自然観察会を続けてきた。近年は森の乱伐で荒廃した土地に、植樹活動を展開している。「子供たちに通潤橋の歴史を知ってほしい」と、震災の4年前には絵本「通潤橋 水が渡る橋」を発刊している。

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 今春の井手さらいには、犬飼地区から参加した十数人に、20人のボランティアが加わった。

 「昔は若い者がおったけど、今は年寄りばかりで最高齢は80代です。ボランティアが手伝ってくれるので、なんとかこなしていますが、10年後にはどぎゃんなるやら」。後藤英治さん(67)が言った。3年前から、通潤橋に埋設された用水を通す石管にたまった土砂を水圧で除去する「栓ぬき」という役を務めている。

犬飼地区の野焼き=熊本県山都町で2024年3月9日午後1時53分、萩尾信也撮影

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 19年前に矢部町と蘇陽町と清和村が合併して誕生した山都町。通潤橋は10年前に「世界かんがい施設遺産」に登録され、昨年には国宝に指定され、町に光をともした。

 その一方で、44年前に2万6000人を超えていた人口は今年1万3000人余に減少。64年前に1万3000人以上だった農業人口も、約2650人を割り込んでいる。

 通潤橋に連なる井手の総延長は44キロに達する。

【客員編集委員・萩尾信也】

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