現在放送中のNHK連続テレビ小説(朝ドラ)「虎に翼」の主人公・猪爪寅子(いのつめともこ)は、日本初の女性弁護士で、後に裁判官を務めた三淵嘉子(みぶちよしこ)(1914~84年)がモデルだ。同じ時代を生き、女性の地位向上に尽くした「三重の寅子さん」を探してみた。
「『日本のマリー・キュリー』と呼ばれた井出ひろがいますよ」。「三重の女性史研究会」会長の佐藤ゆかりさん(61)が教えてくれた。旧姓真柄ひろは1896年、一志郡川口村(現在の津市白山町川口)生まれで、日本で女性として2番目に医学博士号を受けた医師。三淵嘉子より18歳年上で、1990年にこの世を去った。
9歳で父を亡くし、嫁いだ姉を頼り、愛知の豊橋市立高等女学校で学ぶ。経済的な自立を目指し、東京女子医学専門学校(現在の東京女子医大)に進学。1919年に医術開業試験に合格し、産婦人科医として働いた。試験が女性に門戸を開き、荻野吟子が日本初の女性医師となったのは1885年のことだ。
マリー・キュリーは物理学者だが、ひろがそう呼ばれたのは、夫欽一も医師で、1931年、夫婦ともに医学博士号を取得して日本初の「博士夫妻」となったからだ。ひろの先輩医師で欽一の姉・茂代が、研究を続けることを条件に縁を結んだ。米西部ワシントン州シアトルに渡り、日系人向けに夫婦で医院を開業して資金を稼ぎつつ、米東部ペンシルベニア大で神経組織を研究した。成果を論文にまとめ、ひろは東北大から、欽一は東京大から博士号を得た。キュリー夫妻と同様に、家庭でも研究でも互いがパートナーだった。
「女性は家を支える」とされ、男女の役割分担が現代よりも厳しかった時代。なぜ2人はほぼ同時に博士号の偉業を成し遂げられたのか。「2人が協力して家事を分担することで、互いの勉強時間を生み出していた。今で言う『ワーク・ライフ・バランス』を先取りした先見性に驚く」と佐藤さんは話す。例えば炊事の受け持ちは、ひろが料理で欽一が皿洗いと決まっていたと、ひろは後に明かしている。
帰国後は女性雑誌などに頻繁に登場し著名人となったが、故郷の一志郡とのつながりも持ち続けた。57年に母の墓参で里帰りし、地元の婦人会で講演した。太平洋戦争中に疎開して終戦後も住んだ欽一の故郷・長野県佐久市に、川口村の同級生や、生家が檀家だった西称寺(津市白山町)の住職、青木万尚さん(2023年に死去)らを招き、観光を楽しんだという。
青木さんはその時の写真を大切に保管し、晩年に三重の女性史研究会へ寄贈した。写真の中のひろから、明治から平成まで生き抜いたたくましく、明るい人柄を、今もしのぶことができる。
女性が生きた記録掘り起こす
「私たちが習った教科書に、女性はほとんど出てこなかった。でも歴史に男性しかいないはずはない。女性が生きてきた記録をきっちり掘り起こして、世に出したい」。三重の女性史研究会の会長、佐藤ゆかりさん(61)は言う。
研究会は、2004年に県男女共同参画センターの事業として企画された「三重の女性史」の編集のために集まった人たちで発足した。現在のメンバーは14人で、年に3回、発行する会報などでそれぞれの研究成果を発表している。
資料をひもとく楽しさを「通説と違うことや、思いがけない発見に出合うこと」と話す。
「三重にも、(『虎に翼』に登場する)男装の『よねさん』がいたんですよ」と佐藤さんが教えてくれたのは女性教員の先駆け、根本貞路(てる)(1818~95)。幕末から明治の時代、頭を刈り上げて男ものの袴に身を包み、男装で教壇に立った。津市立雲出(くもず)小学校の初代校長として尊敬を集め、地域には胸像も建つ。
09年に発行された「三重の女性史」には、医学や教育、政治など各界でパイオニアとなった女性たちだけではなく、工場労働や農山漁村の暮らしまで、近現代の三重の女性の足跡を幅広く取り上げた。佐藤さんは「苦しい境遇の中、闘って権利を勝ち取った女性たちの姿がそこにある。特別な女性だけではなく、さまざまな立場の女性たちの連帯に、私たちは勇気をもらえる」と語る。【久野華代】
鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。